柳原※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子(白蓮)
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)究《きわ》め
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)日常|傍《かたわ》ら
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子
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一
ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究《きわ》められるものではない。人間と人間との交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽せよう。到底及びもつかないことだ。
微妙な心の動きは、わが心の姿さえ、動揺のしやすくて、信実《まこと》は書きにくいのに、今日《こんにち》の問題の女史《ひと》をどうして書けよう。ほんの、わたしが知っている彼女の一小部分を――それとて、日常|傍《かたわ》らにある人の、片っぽの目が一分間見ていたよりも、知らなすぎるくらいなもので、毎朝彼女の目覚《めざめ》る軒端《のきば》にとまる小雀《こすずめ》のほうが、よっぽど起居を知っているともいえる。ただ、わたしの強味は、おなじ時代に、おなじ空気を呼吸しているということだけだ。
火の国|筑紫《つくし》の女王|白蓮《びゃくれん》と、誇らかな名をよばれ、いまは、府下中野の町の、細い小路のかたわらに、低い垣根と、粗雑な建具とをもった小屋《しょうおく》に暮している※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子《あきこ》さんの室《へや》は、日差しは晴やかな家《うち》だが、垣の菊は霜にいたんで。古くなったタオルの手拭《てぬぐい》が、日当りの縁に幾本か干してあるのが、妙にこの女人《ひと》にそぐわない感じだ。
面《おも》やせがして、一層美をそえた大きい眼、すんなりとした鼻、小さい口、鏝《こて》をあてた頭髪《かみ》の毛が、やや細ったのもいたいたしい。金紗《きんしゃ》お召の一つ綿入れに、長じゅばんの袖は紫友禅のモスリン。五つ衣《ぎぬ》を剥《は》ぎ、金冠をもぎとった、爵位も金権も何もない裸体になっても、離れぬ美と才と、彼女の持つものだけをもって、粛然としている。黒い一閑張《いっかんばり》の机の上には、新らしい聖書が置かれてある。仏の道に行き、哲学を求め、いままた聖書に探《たず》ねるものはなにか――やがて妙諦《みょうてい》を得て、一切を公平に、偽りなく自叙伝に書かれたら、こんなものは入《い》らなくなる小記だ。
※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは、故伯爵|前光卿《さきみつきょう》を父とし、柳原二位のお局《つぼね》を伯母《おば》として生れた、現伯爵貴族院議員柳原義光氏の妹で、生母は柳橋の芸妓だということを、ずっと後《のち》に知った女《ひと》だ。夜会ばやり、舞踏ばやりの鹿鳴館《ろくめいかん》時代、明治十八年に生れた。晩年こそ謹厳いやしくもされなかった大御所《おおごしょ》古稀庵《こきあん》老人でさえ、ダンス熱に夢中になって、山県の槍《やり》踊りの名さえ残した時代、上流の俊髦《しゅんぼう》前光卿は沐猴《もくこう》の冠《かん》したのは違う大宮人《おおみやびと》の、温雅優麗な貴公子を父として、昔ならば后《きさき》がねともなり得《う》る藤原氏の姫君に、歌人としての才能をもって生れてきた。
実家だと思っていたほど、可愛がられて育った、養家《さと》親の家《うち》は、品川の漁師だった。その家でのびのびと育って年頃のあまり違わない兄や、姉のある実家に取られてから、漁師言葉のあらくれたのも愛敬《あいきょう》に、愛されて、幸福に、華《はな》やいだ生涯の来るのを待っていたが、花ならばこれから咲こうとする十六の年に、暗い運命の一歩にふみだした。ういういしい花嫁|君《ぎみ》の行く道には、祝いの花がまかれないで、呪《のろ》いの手が開《ひろ》げられていたのか、京都|下加茂《しもがも》の北小路家へ迎えられるとほどもなく、男の子一人を産んで帰った。その十六の年の日記こそ、涙の綴《つづ》りの書出しであった。
芸術の神は嫉妬《しっと》深いものだという。涙に裂くパンの味を知らない幸福なものには窺《うかが》い知れない殿堂だという。
だが、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは明治四十四年の春、廿七歳のとき、伯爵母堂とともに別居していた麻布|笄町《こうがいちょう》の別邸から、福岡の炭鉱王伊藤伝右衛門氏にとつぐまで、別段文芸に関心はもっていられなかったようだった。竹柏園《ちくはくえん》に通われたこともあったようだったが、ぬきんでた詠があるとはきかなかった。しかし、その結婚から、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんという美しい女性の存在が世に知られて、物議をも醸《かも
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