美人としての評が高く、洋行中にも伊藤公爵との艶名艶罪が囂《かまびす》しかった。古い頃の自由党副総理|中島信行《なかじまのぶゆき》男の夫人|湘煙《しょうえん》女史は、長く肺患のため大磯にかくれすんで、世の耳目《じもく》に遠ざかり、信行男にもおくれて死なれたために、あまりその晩年は知られなかったが、彼女は京都に生れ、岸田俊子といった。年少のころ宮中に召された才媛の一人で、ことに美貌な女であった。この女《ひと》は覇気《はき》あるために長く宮中におられず、宮内を出ると民権自由を絶叫し、自由党にはいって女政治家となり、盛んに各地を遊説《ゆうぜい》し、チャーミングな姿体と、熱烈な男女同権、女権拡張の説をもち、十七、八の花の盛りの令嬢が、島田髷《しまだまげ》で、黄八丈《きはちじょう》の振袖で演壇にたって自由党の箱入り娘とよばれた。さびしい晩年には小説に筆を染められようとしたが、それも病のためにはかばかしからず、母堂に看《みと》られてこの世を去った。
女性によって開拓された宗教――売僧俗僧《まいすぞくそう》の多くが仮面をかぶりきれなかった時において、女流に一派の始祖を出したのは、天理教といわず大本教
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