ぬいて挑《いど》まれたのも、みな彼女の若き日の夢のあとである。彼女たちは幕府のころ、上野の宮の御用達をつとめた家の愛娘であった。下谷《したや》一番の伊達者《だてしゃ》――その唄は彼女の娘時代にあてはめる事が出来る。店が零落してから、ある大名の妾となったともいうが、いかに成行《なりゆ》こうかも知らぬ娘に、天から与えられた美貌と才能は何よりもの恵みであった。彼女は才能によって身をたてようとした。そして八丁堀|茅場町《かやばちょう》の国文の大家、井上文雄の内弟子《うちでし》になった。彼女たちは内弟子という、また他のものは妾だともいう。しかし妾というのは、その頃はまだ濁りにそまない、あまり美しすぎる娘時代であったので、とかく美貌のものがうける妬《ねた》みであったろうと思われるが、後にはあまり素行の方では評判がよくなかった。
四
我国女流教育家の泰斗《たいと》としての下田歌子女史は、別の機会に残して夙《つと》に后の宮の御見出しにあずかり、歌子の名を御下命になったのは女史の十六歳の時だというが、総角《あげまき》のころから国漢文をよくして父君を驚かせた才女である。中年の女盛りには
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