った彼女は、渋沢家では夫人がコレラでなくなって困っているからというので、後の事を引受けることになって連れてゆかれた。その家が以前の我家《わがや》――倒産した油堀の伊勢八のあとであろうとは――彼女は目くらめく心地で台所の敷居を踏んだ。
 彼女はいま財界になくてならぬ大名士《だいめいし》の、時めく男爵夫人である。飛鳥山《あすかやま》の別荘に起臥《おきふ》しされているが、深川の本宅は、思出の多い、彼女の一生の振出しの家である。

       三

 さて明治のはじめに娼妓解放令の出た事を、当今の婦人は知らなければならない。それはやがて大流行になった男女交際の魁《さきがけ》をしたもので、いわゆる明治十七、八年頃の鹿鳴館《ろくめいかん》時代――華族も大臣も実業家も、令夫人令嬢同伴で、毎夜、夜を徹して舞踏に夢中になった、西洋心酔時代の先駆《せんく》をなしたものであった。その頃吉原には、金瓶楼《きんぺいろう》今紫《いまむらさき》が名高い一人であった。彼女は昔時《いにしえ》の太夫職《たゆうしょく》の誇りをとどめた才色兼美の女で、廃藩置県のころの諸侯を呼びよせたものである。山内容堂《やまのうちようどう
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