であろう。すれば事実は公爵夫人貞子なのである。
 貞子夫人の姉たき子は紳商|益田孝《ますだたかし》男爵の側室である。益田氏と山県氏とは単に茶事《ちゃじ》ばかりの朋友《とも》ではない。その関係を知っているものは、彼女たち姉妹のことを、もちつもたれつの仲であるといった。相州板橋にある山県公の古稀庵《こきあん》と、となりあう益田氏の別荘とはその密接な間柄をものがたっている。
 姉のたき子は痩《や》せて眼の大きい女である。妹の貞子は色白な謹《つつ》ましやかな人柄である。今日の時世に、維新の元勲元帥の輝きを額にかざし、官僚式に風靡し、大御所《おおごしょ》公の尊号さえ附けられている、大勲位公爵を夫とする貞子夫人の生立ちは、あわれにもいたましい心の疵《きず》がある。彼女たち姉妹がまだ十二、三のころ、彼女たちの父は、日本橋芸妓歌吉と心中をして死んだ。そういう暗い影は、どんなに無垢《むく》な娘心をいためたであろう。子を捨ててまで、それもかなりに大きくなった娘たちを残して、一家の主人が心中する――近松翁の「天《てん》の網島《あみじま》」は昔の語りぐさではなく、彼女たちにはまざまざと眼に見せられた父の死方で
前へ 次へ
全44ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング