、女というもの自身のもつ美果を、自ら耕し養えとの御教えと、美術、文芸を、かくまで盛んに導かせたまいしおんことである。それは廃《すた》れたるを起し、新しきを招かれたそればかりでなく、音楽や芸術のたぐいにとりてばかりでなく、すべての文教のために、忘れてならないお方でおわしました。主上にはよき后でおわしまし、国民にはめでたき国の宝と、思いあげる御方であらせられた。
この、后の宮の御側には、平安朝の後宮《こうきゅう》にもおとらぬ才媛《さいえん》が多く集められた。五人の少女を選んで海外留学におつかわしになったことや、十六歳で見出された下田歌子《しもだうたこ》女史、岸田俊子《きしだとしこ》(湘煙《しょうえん》)女史があり、女学の道を広めさせられた思召《おぼしめし》は、やがて女子に稀な天才が現われるときになって、御余徳《おんよとく》がしのばれることであろう。一条左大臣の御娘である。
二
わたしは此処に、代表的明治美人の幾人かの名を記《しる》そう。そしてその中からまた幾人かを選んで、短かい伝を記そう。上流では北白川宮大妃富子殿下、故|有栖川宮《ありすがわのみや》妃慰子殿下、新樹《
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