が、漸《ようや》く、江戸|根生《ねおい》の個性あるものとなったのだった。錦絵、芝居から見ても、洗いだしの木目《もくめ》をこのんだような、江戸系の素質を磨《みが》き出そうとした文化、文政以後の好みといえもする。――その間に、明治中期には、中京美人の輸入が花柳界を風靡《ふうび》した――が、あらそわれないのは時代の風潮で、そうしたかたむきは、京都を主な生産地としている内裏雛《だいりびな》にすら、顔立ち体つきの変遷が見られる。内裏雛の顔が尖《とが》って、神経質なものになったのは、明治の末大正の初めが甚《はなはだ》しかった。
上古の美人は多く上流の人のみが伝えられている。稀《まれ》には国々の麗《うる》わしき少女《おとめ》を、花のように笑《え》めるおもわ、月の光りのように照れる面《おもて》とうたって、肌の艶《つや》極めてうるわしく、額広く、愁《うれい》の影などは露ほどもなく、輝きわたりたる面差《おもざし》晴々として、眼瞼《まぶた》重げに、眦《まなじり》長く、ふくよかな匂わしき頬《ほほ》、鼻は大きからず高すぎもせぬ柔らか味を持ち、いかにものどやかに品位がある。光明皇后《こうみょうこうごう》の御顔をうつし奉《たてまつ》ったという仏像や、その他のものにも当時の美女の面影をうかがう事が出来る。上野博物館にある吉祥天女《きっしょうてんにょ》の像、出雲《いずも》大社の奇稲田姫《くしいなだひめ》の像などの貌容《がんよう》に見ても知られる。
平安朝になっては美人の形容が「あかかがちのように麗々《れいれい》しく」と讃えられている。「あかかがち」とは赤酸漿《たんばほおずき》の実《み》の古い名、当時の美女はほおずきのように丸く、赤く、艶やかであったらしくも考えられる。赤いといっても色艶《いろつや》うるわしく、匂うようなのを言ったのであろう。古い絵巻などに見ても、骨の細い、肉つきのふっくりとした、額は広く、頬も豊かに、丸々とした顔で、すこし首の短いのが描いてある。そのころは、髪の毛の長いのと、涙の多いのとを女の命としてでもいたように、物語などにも姿よりは髪の美しさが多くかかれ、敏感な涙が多くかかれてあるが、徳川期の末の江戸女のように、意気地《いきじ》と張りを命にして、張詰めた溜涙《ためなみだ》をぼろぼろこぼすのと違って、細い、きれの長い、情のある眦《まなじり》をうるませ、几帳《きちょう》のかげに
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