であったが、彼女は正体を見あらわされるのを厭《きら》ったに違いなかった。艶やかに房やかな黒髪は、巧妙にしつらわれた鬘《かつら》なのは、額でしれた。そして悲しいことに、釣り革をにぎる手の甲に、年数《としかず》はかくすことが出来ないでいた。
 女役者として巍然《ぎぜん》と男優をも撞着《どうちゃく》せしめた技量をもって、小さくとも三崎座に同志を糾合《きゅうごう》し、後にはある一派の新劇に文士劇に、なくてならないお師匠番として、女団洲の名を辱《はずか》しめなかった市川九女八《いちかわくめはち》――前名|岩井粂八《いわいくめはち》――があり、また新宿|豊倉楼《とよくらろう》の遊女であって、後の横浜|富貴楼《ふっきろう》の女将《おかみ》となり、明治の功臣の誰れ彼れを友達づきあいにして、種々な画策に預ったお倉という女傑《じょけつ》がある。お倉は新宿にいるうちに、有名な堀の芸者小万と男をあらそい、美事にその男とそいとげたのである。彼女は養女を多く仕立て、時の顕官に結びつくよすがとした、雲梯《うんてい》林田亀太郎《はやしだかめたろう》氏――粋翰長《すいかんちょう》として知られた、内閣書記翰長もまたお倉の女婿《じょせい》である。お倉は老ても身だしなみのよい女であって、老年になっても顔は艶々としていた。切髪のなでつけ被布姿《ひふすがた》で、着物の裾《すそ》を長くひいてどこの後室《こうしつ》かという容体であった。
 有明楼《ゆうめいろう》のお菊は、白博多《しろはかた》のお菊というほど白博多が好きで名が通っていた。それよりもまた、その頃の人気俳優|沢村宗十郎《さわむらそうじゅうろう》――助高屋高助《すけたかやたかすけ》――を夫にむかえたのと、宗十郎が舞台で扮する女形《おやま》はお菊の好みそのままであったので殊更《ことさら》名高かった。ことに宗十郎の実弟には、評判の高い田之助《たのすけ》があったし、有明楼は文人画伯の多く出入《でいり》した家でもあったので、お菊はかなりな人気ものであった。待乳山《まっちやま》を背にして今戸橋《いまどばし》のたもと、竹屋の渡しを、山谷堀《さんやぼり》をへだてたとなりにして、墨堤《ぼくてい》の言問《こととい》を、三囲《みめぐり》神社の鳥居の頭を、向岸に見わたす広い一構《ひとかまえ》が、評判の旗亭《きてい》有明楼であった。いま息子の宗十郎が住《すま》っている家は、あの
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