》侯は彼女に、その頃としては実に珍らしい大形の立鏡《たてかがみ》を贈られたりした。彼女は今様男舞《いまようおとこまい》を呼びものにしていた。緋《ひ》の袴《はかま》に水干立烏帽子《すいかんたてえぼし》、ものめずらしいその扮装《ふんそう》は、彼女の技芸と相まってその名を高からしめた。明治廿四年|依田学海《よだがくかい》翁が、男女混合の演劇をくわだてた時に、彼女は千歳米坡《ちとせべいは》や、市川九女八《いちかわくめはち》の守住月華《もりずみげっか》と共に女軍《じょぐん》として活動を共にしようと馳《は》せ参じた。その後も地方を今紫の名を売物にして、若い頃の男舞いを持ち廻っていた様であった。一頃《ひところ》は、根岸に待合めいたこともしていた。晩年に夫としていたのは、彼《か》の相馬事件――子爵相馬家のお家騒動で、腹違いの兄弟の家督争いであった。兄の誠胤《せいいん》とよばれた子爵が幽閉され狂人とされていたのを、旧臣|錦織剛清《にしごおりごうせい》が助けだした――の錦織剛清であった。
 遊女に今紫があれば芸妓に芳町《よしちょう》の米八《よねはち》があった。後に千歳米坡と名乗って舞台にも出れば、寄席《よせ》にも出て投節《なげぶし》などを唄っていた。彼女はじきに乱髪《らんぱつ》になる癖があった。席亭《せきてい》に出ても鉢巻のようなものをして自慢の髪を――ある折はばらりと肩ぐらいで切っている事もあった。彼女が米八の昔は、時の人からたった二人の俊髦《しゅんもう》として許された男――末松謙澄《すえまつけんちょう》と光明寺三郎《こうみょうじさぶろう》――いずれをとろうと思い迷ったほど、思上った気位で、引手あまたであった。とうとうその一人の光明寺三郎夫人となったが、天は、その能ある才人に寿《じゅ》をかさず、企図は総て空しいものとされてしまった。彼女はその後、浮世を真っすぐに送る気をなくしてしまって、斗酒《としゅ》をあおって席亭で小唄をうたいながら、いつまでも鏡を見てくらす生涯を送るようになった。しかし伝法《でんぽう》な、負けずぎらいな彼女も寄る年波には争われない。ある夜、外堀線《そとぼりせん》の電車へのった時に、美女ではあるが、何処やら年齢のつろくせぬ不思議な女が乗合わせた、と顔を見合わした時に、彼女はそれと察してかクルリと後をむいて、かなり長い間を立ったままであった。席はむしろすきすぎていたの
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