れ》に見る美人でおわしました。明眸皓歯《めいぼうこうし》とはまさにこの君の御事と思わせられた。いみじき御才学は、包ませられても、御詠出の御歌によって洩《も》れ承《うけたま》わる事が出来た。
 明治聖帝が日本の国土の煌《かがや》きの権化《ごんげ》でおわしますならば、桜さく国の女人の精華は、この后であらせられた。大日輪の光りの中から聖帝がお生まれになったのならば、天地馥郁《てんちふくいく》として、花の咲きみちこぼれたる匂いの蕋《しべ》のうちに、麗しきこの女君《めぎみ》は御誕生なされたのである。明治の御代に生れたわたしは、何時もそれをほこりにしている。一天|万乗《ばんじょう》の大君の、御座《ぎょざ》の側《かたわ》らにこの后がおわしましてこそ、日の本は天照大御神の末で、東海貴姫国とよばれ、八面|玲瓏《れいろう》の玉芙蓉峰《ぎょくふようほう》を持ち、桜咲く旭日《あさひ》の煌く国とよぶにふさわしく、『竹取物語』などの生れるのもことわりと思うのであった。
 我等女性が忘れてならないこの后からの賜物《たまもの》は、長い間の習わしで、女性の心が盲目であったのに目を開かせ、心の眠っていたものに夢をさまさせ、女というもの自身のもつ美果を、自ら耕し養えとの御教えと、美術、文芸を、かくまで盛んに導かせたまいしおんことである。それは廃《すた》れたるを起し、新しきを招かれたそればかりでなく、音楽や芸術のたぐいにとりてばかりでなく、すべての文教のために、忘れてならないお方でおわしました。主上にはよき后でおわしまし、国民にはめでたき国の宝と、思いあげる御方であらせられた。
 この、后の宮の御側には、平安朝の後宮《こうきゅう》にもおとらぬ才媛《さいえん》が多く集められた。五人の少女を選んで海外留学におつかわしになったことや、十六歳で見出された下田歌子《しもだうたこ》女史、岸田俊子《きしだとしこ》(湘煙《しょうえん》)女史があり、女学の道を広めさせられた思召《おぼしめし》は、やがて女子に稀な天才が現われるときになって、御余徳《おんよとく》がしのばれることであろう。一条左大臣の御娘である。

       二

 わたしは此処に、代表的明治美人の幾人かの名を記《しる》そう。そしてその中からまた幾人かを選んで、短かい伝を記そう。上流では北白川宮大妃富子殿下、故|有栖川宮《ありすがわのみや》妃慰子殿下、新樹《
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