さき》は明治の初期の美女代表で、あわせて情史を綴《つづ》っている。お倉は新宿の遊女、今紫は大籬《おおまがき》の花魁《おいらん》、男舞で名をあげ、吉原太夫《よしわらだゆう》の最後の嬌名《きょうめい》をとどめたが、娼妓《しょうぎ》解放令と同時廃業し、その後、薬師|錦織《にしごおり》某と同棲《どうせい》し、壮士芝居|勃興《ぼっこう》のころ女優となったりして、男舞いを売物に地方を廻っていたが、終りはあまり知れなかった。お倉は妓籍にあるころよりも、横浜開港に目をつけて、夫と共に横浜に富貴楼の名を高め、晩年も要路の人々の仲にたって、多くの養女をそれぞれの顕官に呈して、時世の機微を覗《うかが》い知っていた。有明楼おきくは、訥升《とつしょう》沢村宗十郎の妻となって――今の宗十郎の養母――晩年をやすらかに逝《い》ったが、これまた浅草今戸橋のかたわらに、手びろく家居《かきょ》して、文人墨客《ぶんじんぼっかく》に貴紳に、なくてならぬ酒亭の女主人であった。
芳町《よしちょう》の米八《よねはち》、後に今紫と一緒に女優となって、千歳米波《ちとせべいは》とよばれた妓《こ》は、わたしの知っている女の断髪の最初だと思
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