えば、国家の大事を議する人々の、機密の集りだという席が酒亭であって、酌するものを客の数より多くをならべて、敢《あえ》て恥《はじ》ず、その有様を撮《と》らせ、そのまた写真を公然と新聞に掲げていたのが、漸《ようや》く影を見せなくなったのは、やっと、大正十二年大震後のことではないか。
 あの謹厳な、故|山県《やまがた》老公もまた若くて、鎗《やり》踊りをおどったとさえ言伝えられる、明治十七、八年ごろの鹿鳴館《ろくめいかん》時代は、欧風心酔の急進党が長夜の宴を張って、男女交際に没頭したおりであった。洋行がえりの式部官戸田子爵夫人極子が、きわめて豊麗な美女で、故伊藤公が魅惑を感じて物議をひきおこしたとの噂《うわさ》もあった。岩倉公爵夫人――東伏見宮《ひがしふしみのみや》大妃周子殿下の母君も、殿下が今もなおお美しいがごとく清らかな女だった。大隈《おおくま》侯夫人綾子も老いての後も麗々しかったように美しかった。その中にも故|村雲尼公《むらくもにこう》は端麗なる御容姿が、どれほど信徒の信仰心を深めさせたか知れなかった。
 富貴《ふっき》楼お倉、有明《ゆうめい》楼おきく、金瓶《きんぺい》楼|今紫《いまむら
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