は自分だけの立場がごまかせればよいといふのであらうが、面《つら》が立たねえと、昔の芝居の二番目ものなどで見得をきるのも、多くはそれに似通つてゐる。誠にせまい道徳――道徳といつてをかしければ、狹い自己滿足だ。わたしはかういふ世界を好かない。その裏にある潔癖だけを――せまい正義感だけを買ひはするが、およそ、わたしの時代觀とはかけ離れたものだ。
 姉御とは本當は姉御前《あねごぜ》の尊稱で、御《ご》とは敬し親《した》しんだ呼び名ゆゑ、母御前《はゝごぜ》とおなじに、よばれて嬉しい名でなければならないのを、きやん(侠)な呼名に轉化してしまつて、あばずれといふふうになつてしまつてゐる。ごくよい意味にとる時に女丈夫といつたものも含んでゐるし、サラリとした氣風をも籠めて、あねご肌《はだ》といふやうだが、事實はすこし異つてゐる。サラリとした氣風といふなかには、生れだちの氣風もあるし、修業によつて超然たる悟りもあるし、ガラツパチの粗雜なものとは、てんから質においてちがつてゐることは、女丈夫をもその中に入れるやうだが、女丈夫は讀んで字のごとくますらをの魂がある女なのだ。
 もとより仁侠の、親分にしても姐御にし
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