、三好ゆきとなり、剃髮して正慶尼となつたが、美人で侠氣があり、才藻ゆたかに學問もあつて、しかも金持ちの娘で腕が立つといふのだから、おあつらへむきでもあり、また驕慢でもあつたらう。つきまとふ男がうるさいといつて、顏に墨をなすつて痣をこしらへ、しかも妙齡十六の時、天王寺詣りの歸りに蛇坂《へびざか》で四人組の惡者が、ただの娘だと思ひ、引つ浚はうとしたのを、覺えの早業でとりひぢき恐れ入らせたので、奴の小萬の名は風のやうに廣まつた。
 二十の春、京へ上り、禁中に仕へ、長局《ながつぼね》が祐筆をして五年をおくつたが、また大阪へ歸つた。奴風俗伊達な刀の一本ざし、ある時には豐臣秀頼の追善にと、にはか雨にぬれる男女に傘百本を寄附したりしたといふが、柳里恭柳澤淇園《りうりけふやなぎさはきゑん》が通《かよ》つたとも、堂上家《だうじやうけ》の浪人を男妾にしてゐたが、その男が義に違ふことをしたので放逐し、その後は男を近づけなかつたともいはれてゐる。この小萬などが、まあ、つぶだつた女親分とか、姐御などの先人であらう。
 姐御――阿嫂《あさう》のほんもとは、なんとなく支那にありさうだが、支那のものを讀んでゐないから分らない。水滸傳など、ああした作りものとしても、あの虎を張り殺した武松《ぶしやう》にしびれ酒をのませ、母夜叉孫二娘《ぼやしやそんじじやう》――孟洲の路《みち》の、大樹林の十字波の酒店で、頭には鐵環をはめ、鬢には野花をさした美しい女が、人肉の肉包を賣つてゐたり、これも登洲城の東門の外で、酒を商つてゐた、母大虫顧大嫂《ぼだいちうこたいさう》といふ勇力武藝男子にすぐれ、四五十個の男も敵とするあたはずといふ女猛者《をんなもさ》は、おなじ、梁山伯《りようざんぱく》の女性のうちでも、扈家莊《こやそう》の女將で、五百の手勢を率ゐ、白馬にまたがつて兩刄をつかつた、お姫樣出の、美女|一丈青扈三孃《いちぢやうせいこさんじやう》などよりは、姐御といふことばのはまつた器であると思ふ。ああした粉本《ふんぽん》は、あの頃ばかりではなく、支那には澤山あつたのかも知れない。シベリヤお菊とか、おらんだお蝶とか、海外漂泊の女の中にも、さうした方面の人たちは、我國の實在の女性にも多かつたであらうが――
 それにしても、姐御とはどうしても、浮世ずれのしたところと、世帶ずれもあつて、いはゆる、下腹《したはら》に毛のないといつた
前へ 次へ
全8ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング