、したたかものの人柄をも加味し、轉じては、當今でいへば野心家、かなり金錢慾も名譽慾も覇氣もあつて、より多く政治的でなければあてはまらない。
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だが、わたしがさういふと、あなたはその血をひいてゐるところがある。江戸ツ子の末だからといはれる。それは意味ありげで、意味のない言葉だ。江戸ツ子がガサツだといふのならうけとれるが、江戸には士、工、商の三階級があつて江戸といふ都會をつくつてゐた。その尤もガサツな職人風《しよくにんふう》なものいひが、どうも江戸ツ子といふ概念をあたへてゐるので、すべての好みが淺薄《せんぱく》に感じられると見える。だが江戸ツ子の負《まけ》じ魂《だましひ》は、全國的のものを代表してゐる。といふのは、もとより、全國的代表移民の都會であるから、そのころの負けじ魂が、利かぬ氣のきつぷ[#「きつぷ」に傍点]になつて殘つてゐるので、すべてが鉋《かんな》ツ屑《くづ》のやうなものばかりではない。もすこしいつて見れば、それどころかあんまり頭が早くつて、冴えて冷たくさへなつてゐたのだ。で、無論、眞の江戸氣質などは、滅《ほろ》びたのだ。殘骸はなにでも厭なもので、わたくしなどもその厭な殘骸から脱却して、新日本の一民として生きたいのだ。
當今といへども、姐御がりたいものがないとはいへない。黨を組んでためにしようとするもの、自分の實力以上の力としようとするもの、或は皆無でないかもしれない。だが賢明なる周圍が、そんな時代錯誤をさせはしない。集團的の強さはみんなよく知つてゐるが集團は、個々の集りで、親分子分の關係でないから、自由であり、快活であり、卑屈でない。
およそまあ、姐御なるものを想像してごらんなさい。心の肌のキメの粗いものだ。神經は馬の尻つぽの毛を縒《よ》りあはせたほど太く、強靱でなければならない。まして顏の皮は、昔でさへ千枚ばりといつたが、防彈ハガネほどでなければなれない。
わたしなども、大姐御と書かれることもあるが、愛敬《あいきやう》なのはわかつてゐる。愛稱《あいしよう》してもらつてゐるのであつて、今の世の、ほんとの大姐御などといふものになれる資格があれば、それは、昔時の叡山の惡僧よりもたいした代ものだ。わたしはただ、害のない存在として、若い女友だちから愛されてゐる幸福者にすぎない。わたしには姐御などになれる荒つぽい勇氣がない。そんな風におもはれ
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