の御家庭が、なかなか費《つい》えのある事を思わず、またそうした苦悩をしのんでも、志した道に精進して、婦人の覚醒《かくせい》に力をつくされる、社会的な、広義な愛を――新人の味わう悲痛を知ろうとしないのに、憎らしささえ覚えました。
 らいてうさま。あなたは、言うにいえない、人知れぬ苦い涙を、幾度お味《あじわ》いなさいましたろうとおいとしく思います。あなたは、優しい夫君、いとしいお子たちに取りまかれて、静かに出来るだけの日を静養なさいまし。そして心身ともに以前に倍しておすこやかになり、ともすれば懶惰《らんだ》に、億劫《おっくう》になりがちなわたしたちのために、発奮させる原素となって下さいまし。

       五

 らいてうさま、
 わたくしはもう「煤烟《ばいえん》」を読んだおりの感想を思い出すことが出来ません。たしか寒い、雪の中を、あなたが気強さを守り通して、一人で山の方へ立っておしまいなさったということをおぼえておるだけです。そのうち、「煤烟」の作者を、ずっと後に見かけた事があります。大柄な、肥《ふと》った、近眼鏡をかけた色の白い、髪を短くかった方でした。以前からお連添《つれそ》いになっている藤間勘次さんが、藤間静枝の「藤蔭会《とういんかい》」の第一回に出られた時のことで、日本橋の常盤《ときわ》倶楽部で御座いました。その折にわたくしは何故となく「煤烟」は男の方から見ただけで書いたものだという気持がしました。その後、『青鞜』から尾竹紅吉さんの『サフラン』が生れ、『青鞜』が伊藤野枝《いとうのえ》さんのお手に移ってやめられてから、『青鞜』の第二世という『ビアトリス』が新《あらた》に生れ、そしてその同人|山田田鶴子《やまだたずこ》さんに時折お目にかかる機会が来たときに、山田さんから伺ったはなしでは「煤烟」の作者は、幾度「煤烟」を繰《くり》かえそうとなすっているかと、ほほえまれるので御座いました。
 あの事件――あなたのお名がわたくしにも親しみ深くなったおり、あなたの処女作でおありだろうと思う、たしか二場ばかりの脚本を載せた小さな雑誌の寄贈をうけたことがありましたが、「煤烟」の中のあなたらしい女性をとりあつかった題材で、脚本そのものは、平ったくもうせば、よかったとはもうせませんが、わたくしは大変興味をもって読みました。そのまたあなたが禅をお学びだということもそのうち承わりました。
 いつぞや有楽座で、チェホフの「叔父《おじ》ワーニャ」を素人《しろうと》の劇団の方たちが演じたおり、奥村さんがギターを弾《ひ》く役をなさった事がありました。あの節お招きを頂きながら田端《たばた》のアトリエへうかがわなかったのを、いまでも大層残念に思っております。お宅が芝居のおけいこばになっているから見に来てくれるようにとお言《こと》づてのあったおり、わたくしは何ともいえぬ和気藹々《わきあいあい》としたものを感じました。わたくしもあなたがたを取巻く劇中の一人のはやくになって、田端の画室の仮《かり》けいこ場へ登場して、御家庭にも親しんでみたいと思っておりましたが、なかなか家を出ないのがわたくしの癖で、そうしなければと思っているうちが、何んでも一番心持が緊張している時で、さあという段になると気が重くなるのがわたくしの悪い習慣なのでございます。
 あなたをぜひ美人伝に入れなくてはならない方だと、わたくしがいったのを、人づてにお聞きになって「どうぞお書き下さい。だが、どんな風にお書きになるでしょう」と仰しゃったというお言《こと》づてを伺ったのも、もう三年も前になります。どんなふうにといって、あなたは単に美人伝ばかりの人ではありませんから、わたくしは、あっさりと、あなたのお名を加えて自分の満足だけに致すのです。貴女の伝記は、思想家として――近代女性の母としてあるべきです。
 あなたというお方は、気持の優しい方だと思います。知らない方は、あなたをまるで違ったふうに思っているでしょうと思います。女丈夫だから、若く、ねんごろにつかえる夫を持ったなどと推測にすぎることを言って平気なものもありますが、それは大変あやまった事で、あなたほどの方が夫から敬されたのはあたり前です。それ以上の親しみと愛が、そんな事を包んでしまうのを知らないのです。妻というものは台所の俎板《まないた》と同様、または雑巾《ぞうきん》ぐらいに見てよいものだといって憚《はばか》らないものがあることゆえ、妻の偉さを知っているものを白眼で見て、羨《うらや》ましさから起る嫉妬《しっと》にしか過ぎません。なんであなたほどのかたが、妻におもねり、機嫌ばかり取っているような、そんな男を男と見ましょうか、伴侶《はんりょ》として選みましょうか。見せかけだけでしか標準をさだめ得ない、世の中の軽薄さを思わせられます。
 田村俊子さんが
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