平塚明子(らいてう)
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)如何《いかが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)芽|生《ば》え
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奇+支」、第4水準2−13−65]《そば》だたせた
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一
らいてうさま、
このほどお体は如何《いかが》で御座いますか。爽《さわ》やかな朝風に吹かれるといかにもすがすがしくて、今日こそ、何もかもしてしまおうと、日頃のおこたりを責められながら、私は、貧乏な財袋《さいふ》よりもなお乏しい頭の濫費をしつつ無為な日を送っております。
御あたりはお静かでございますか。田舎《いなか》での御生活は、どこやら不如意《ふにょい》なようでいて、充実されたものであろうと、お羨《うらやま》しくぞんじます。あなたのお体にもよし、御家庭にもしみじみとした味の出た事と存じます。お子さまがたは、御自分たちのお母さまとして、日夜お傍《そば》に親しむことのお出来になるのを、どんなに現わし得ない感謝をもって、およろこびなされている事かと、あたくしでさえ嬉しい心地がいたします。そして風物は悠々《ゆうゆう》として、あなたの御健康を甦《よみが》えらせていることとぞんじます。
二
らいてうさま、
那須野《なすの》を吹く風は、どんな色でございましょう。玉藻《たまも》の前《まえ》の伝説などからは紫っぽい暗示をうけますが、わたくしの知る那須野の野の風は白うございます。冬など、ふと灰色がかるようにも感じられますが、わたくしには何となく白いように思われます。その白さも、薔薇《ばら》の白《ホワイト》ではなくて、白夜、白雨といった感じ、夏らしい清新の感がともなっております。
わたくしは那須野をよく知りません。奥州《おうしゅう》へ行ったおり、時折通りすぎた汽車の窓からあかず眺めて通ったところで御座います。あの広々した野を見ると、せせこましい、感情にのみ囚《とら》われている自分から解きほどかれて、自由な、伸々《のびのび》した、空飛ぶ鳥のような勇躍をおぼえました。わたくしは山は眺めるのを好みます。海の眺めも好きです。が、野の景色ほどしみじみと好きなものはございません。あかず行く雲のはてを眺め、野川の細流《せせらぎ》のむせぶ音を聞き、すこしばかりの森や林に、風の叫びをしり、草の戦《そよ》ぎに、時の動きゆく姿を見ることが望みでございます。むさしのに生れて、むさしのを知らぬあこがれが、わたくしの血の底を流れているのでございましょう。
いま、わたくしの目の前、小さな窓も青葉で一ぱいで御座います。思いは遠く走って、那須野の、一望に青んだ畑や、目路《めじ》のはての、村落をかこむ森の色を思いうかべます。御住居《おすまい》は、夏の風が青く吹き通していることと思います。白い細かい花がこぼれておりましょう。うつ木《ぎ》、こてまり、もち、野茨《のいばら》――栗の葉も白い葉裏をひるがえしておりましょう。塩原へ行く道を通っただけの記憶でも、那須は栗の沢山あるところだと思いました。小さな、一尺二、三寸の木の丈《たけ》で、ほんの芽|生《ば》えなのに青い栗毬《いが》をつけていたことを思い出します。
昨夜は、もう入梅であろうに十五日の月影が、まどかに、白々と澄んでおりました。夏の月影の親しみぶかさ――そんなことを思いながら眺めておりました。そちらの月の夜は、夜鳥《よどり》もさぞ鳴きすぎることでございましょう。月明《つきあかり》に、夜空に流れる雲のたたずまいもさぞ眺められることで御座いましょう。そして静寂な中に、ともしびをかこんで、お子様がたのおだやかな寝息に頭をまわしながら、静かに、あなたがたは何をお読みになっていらっしゃるか、何をお思いになってお出《いで》であろうか、または、何についてお談話《はなし》をなされてであったろうかと、ふと何ともいえぬ懐《なつか》しみが湧《わ》き上りました。
らいてうさま、あなたのお健康《からだ》は、都門《ともん》を離れたお住居《すまい》を、よぎなくしたでございましょうが、激しい御理想に対してその欲求《おのぞみ》が、時折何ものも焼尽《やきつく》す火のように燃え上るおりがございましょう。けれどもまた、長い御一生に――あなたばかりでなく、お子様がたにも――おだやかな、滋味のしたたるような今の御生活が、しみじみと思い出されるおりがあろうと思いますと、只今《ただいま》の楽しいお団欒《まどい》が、尽きない尽きない、幸福の泉の壺《つぼ》であるようにと祈られます。
三
らいてうさま、
時折来訪される人で、あなた
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