織の下になるところは小切《こぎ》れをはぎ、見える場処《ところ》にだけあり合せの、共切《ともぎ》れを寄せて作った着物をきていったことがある。勿論《もちろん》裾廻《すそまわ》しだけをつけたもので、羽織が寒さも救えば恥をも救い隠したのである。そうしても師の許《もと》へ顔をだす事を怠《おこた》らなかったわけは、他《ほか》にもあるのであった。歌子は裁縫や洗濯《せんたく》を彼女の家に頼んで、割《わり》のよい価を支払らっていた。師弟の情誼《じょうぎ》のうるわしさは、あるおり、夏子に恥をかかせまいとして、歌子は小紋ちりめんの三枚重ねの引《ひき》ときを、表だけではあったが与えもした。
「蓬生《よもぎう》日記」の十月九日のくだりには、
[#ここから2字下げ]
師の君に約し参らせたる茄子《なす》を持参す。いたく喜びたまひてこれひる飯《げ》の時に食はばやなどの給ふ、春日《かすが》まんぢうひとつやきて喰《く》ひたまふとて、おのれにも半《なかば》を分《わけ》て給ふ。
[#ここで字下げ終わり]
とあるにも師弟の関係の密なのが知られる。けれども歌子は一葉をよく知っていた。あるおり『読売新聞』の文芸担当記者が、当時の才媛について、萩の屋門下の夏子と龍子《たつこ》――三宅花圃《みやけかほ》女史――の評を求めたおり、歌子は、龍子は紫式部であり夏子は清少納言であろうと言ったとか、一葉も自分で、清少納言と共通するもののあるのを知っていたのかとも思われるのは、随感録「棹《さお》のしづく」に、
[#ここから2字下げ]
少納言は心づからと身をもてなすよりは、かくあるべき物ぞかくあれとも教ゆる人はあらざりき。式部はおさなきより父為時がをしへ兄もありしかば、人のいもうととしてかずかずにおさゆる所もありたりけんいはゞ富家に生れたる娘のすなほにそだちて、そのほどほどの人妻に成りたるものとやいはまし――仮初《かりそめ》の筆すさび成りける枕の草紙をひもとき侍《はべ》るに、うはべは花|紅葉《もみじ》のうるはしげなることも二度三度見もてゆくに哀れに淋しき気《け》ぞ此《この》中《なか》にもこもり侍る、源氏物がたりを千古の名物とたゝゆるはその時その人のうちあひてつひにさるものゝ出来《いでき》にけん、少納言に式部の才なしといふべからず、式部が徳は少納言にまさりたる事もとよりなれど、さりとて少納言をおとしめるはあやまれり、式部は天《あめ》つちのいとしごにて、少納言は霜ふる野辺にすて子の身の上成るべし、あはれなるは此君やといひしに、人々あざ笑ひぬ。
[#ここで字下げ終わり]
と同情している。
とはいえその間に女史一代の天華は開いた。
「名誉もほまれも命ありてこそ、見る目も苦しければ今宵は休み給へ」
と繰返し諫《いさ》める妹のことばもききいれず、一心に創作に精進《しょうじん》し、大音寺前《だいおんじまえ》の荒物屋の店で、あの名作「たけくらべ」の着想を得たのであった。けれどもまた、漸く死の到来が、正面に廻って来たのでもあったが、そうとは知りようもなく、ただ家の事につき、母を楽しませる事についても、一層気掛りの度合《どあい》が増したものと見え、彼女は相場《そうば》をして見ようかとさえ思ったのだ。
私は此処まで書きながら、私も母の望みを満《みた》そうと、そんな考えを起した事が一再ならずあったので、この思いたちが突飛《とっぴ》ではない、全く無理もないことだと肯定する。その相場に関して、「天啓顕真術本部」という、妙な山師のところへ彼女がいったことから、すこしばかり恋愛をさがしてみよう。
荒物店《あらものや》を開いた時のことも書残してはならない。
――夕刻より着類《きるい》三口持ちて本郷いせ屋にゆき、四円五十銭を得、紙類を少し仕入れ、他のものを二円ばかり仕入れたとある。
[#ここから2字下げ]
今宵はじめて荷をせをふ、中々に重きものなり。
[#ここで字下げ終わり]
ともいい、日々の売上げ廿八、九銭よりよくて三十九銭と帳をつけ、五厘六厘の客ゆえ、百人あまりもくるため大多忙だと記《しる》したのを見れば、
[#ここから4字下げ]
なみ風のありもあらずも何かせん
一葉《ひとは》のふねのうきよなりけり
[#ここで字下げ終わり]
と感慨無量であった面影が彷彿《ほうふつ》と浮かんでくる。
三
廿七年二月のある日の午後に、本郷区|真砂町《まさごちょう》卅二番地の、あぶみ坂上の、下宿屋の横を曲ったのは彼女であった。その路は馴染《なじみ》のある土地であった。菊坂《きくざか》の旧居は近かった。けれども其処を歩いていたのは、謹厳深《つつしみぶか》い胸に問いつ答えつして、様々に思い悩んだ末に、天啓顕真術会本部を訪れようとしていたのであった。
黒塀《くろべい》の、欅《けやき》の植込みのある、小道を入って、玄関に立った彼女は、その家の主、久佐賀《くさか》先生というのは、何々道人とでもいうような人物と想像していたのであろう。秋月と仮名《かめい》して取次ぎをたのんだ。
彼女は久佐賀某に面接したおり、
(逢《あい》見ればまた思ふやうの顔したる人ぞなき)
と、『つれづれ草』の中にある詞《ことば》を思出しながら、四十ばかりの音声の静かにひくい小男に向《むき》合った。
鑑定局という十畳ばかりの室《へや》には、織物が敷詰められてあり、額は二ツ、その一つには静心館と書してあり、書棚、黒棚、ちがい棚などが目苦《めまぐるし》いまでに並べたててあり、床《とこ》の間《ま》には二幅対《にふくつい》の絹地の画、その床を背にして、久佐賀某は机の前に大きな火鉢を引寄せ、しとねを敷いていて彼女を引見したのであった。
「申歳《さるどし》の生れの廿三、運を一時に試《ため》し相場をしたく思えど、貧者一銭の余裕もなく、我力にてはなしがたく、思いつきたるまま先生の教えをうけたくて」
と彼女は漸くに口を切った。それに答えた顕真術の先生は、
「実に上々のお生れだが金銭の福はない。他の福禄が十分にあるお人だ。勝《すぐ》れたところをあげれば、才もあり智もあり、物に巧《たくみ》あり、悟道の縁《えに》しもある。ただ惜むところは望《のぞみ》が大きすぎて破れるかたちが見える。天稟《てんぴん》にうけえた一種の福を持つ人であるから、商《あきな》いをするときいただけでも不用なことだと思うに、相場の勝負を争うことなどは遮《さえぎ》ってお止めする。貴女はあらゆる望みを胸中より退《のぞ》いて、終生の願いを安心立命しなければいけない。それこそ貴女が天から受けた本質なのだから」
と言った。彼女は表面|慎《つつま》しやかにしていても、心の底ではそれを聴いてフフンと笑ったのであろう。
「安心立命ということは出来そうもありません。望みが大に過ぎて破れるとは、何をさしておっしゃるのでしょう。老たる母に朝夕のはかなさを見せなければならないゆえ、一身を贄《にえ》にして一時の運をこそ願え、私が一生は破《や》ぶれて、道ばたの乞食《こじき》になるのこそ終生の願いなのです。乞食になるまでの道中をつくるとて悶《もだ》えているのです。要するところは、よき死処がほしいのです」
と言出すと、久佐賀は手を打っていった。
「仰《おっ》しゃる事は我愛する本願にかなっている」
彼女と久佐賀との面会は話が合ったのであろう。月を越してから久佐賀は手紙をもって、亀井戸の臥龍梅《がりょうばい》へ彼女を誘った。手紙には、
[#ここから1字下げ]
君が精神の凡ならざるに感ぜり、爾来《じらい》したしく交わらせ給わば余が本望なるべし
[#ここで字下げ終わり]
などと書いたのちに、
[#ここから2字下げ]
君がふたゝび来たらせ給ふをまちかねて、として、
とふ人やあるとこゝろにたのしみて
そゞろうれしき秋の夕暮
[#ここで字下げ終わり]
と歌も手も拙《つた》ないが、才をもって世を渡るに巧みなだけな事を尽してあった。とはいえ、それを受けたのは一葉である。そんな趣向で手中にはいると思うのかと、直《すぐ》に顕真術先生の胸中を見現《みあらわ》してしまった。日本全国に会員三万人、後藤大臣並びに夫人(象次郎《しょうじろう》伯)の尊敬|一方《ひとかた》でないという先生も、女史を知ることが出来ず、そんな甘い手に乗ると思ったのは彼れが一代の失策であったであろう。
彼女は久佐賀の価値《ねうち》を知った。彼れは世人の前へ被《かぶ》る面で、彼女も贏得《かちう》ることが出来ると思ったのであろう。彼女の手記には利己流のしれもの、二度と説を聴けば、厭《いと》うべくきらうべく、面に唾《つば》きをしようと思うばかりだとも言い、かかるともがらと大事を語るのは、幼子《おさなご》にむかって天を論ずるが如きものだ、思えば自分ながら我も敵を知らざる事の甚だしきだと、自分をさえ嘲笑《あざわら》っている。けれども久佐賀の方では、自分の方は名と富と力を貯えているものだと、慢じていたのであろう。そしてその上に、一葉の美と才と、文名とを合せればたいしたものだと己惚《うぬぼれ》たのであろう。他の者には洩《もら》すのさえ恥《はじ》ているだろうと思われる貧乏を、自分だけがよく知っていると思いもしたのであろう。まだそれよりも、彼女が親と妹のために、物質の満足を得させたいと願っている弱みを、彼れは自分一人が承知しているのだと思い上っていた。それのみならず彼れは、一葉を説破しえたつもりでいたかも知れない。
久佐賀は、金力を持って、さも同情あるように附込《つけこ》んでゆこうとした。そうした男ゆえ、俺ならば大丈夫良かろうと錨《いかり》をおろしてかかったのかも知れない。ともかく彼れはやんわりと、勝気なる、才女を怒らせないような文面をもって求婚を申入れた。それは廿七年の六月九日のことで女史が廿三歳の時である。
(貴女の御困苦が私の一身にも引くらべられて悲しいから、御成業の暁までを引受けさせて頂きたい。けれども唯《ただ》一面識のみでは、お頼みになるのも苦しいだろうから、どうか一身を私に委《ゆだ》ねてはくれまいか。)
そんな風な申込に対して苦笑せずにいられるだろうか? いうまでもなく彼女は彼れを評して、笑うにたえたしれもの[#「しれもの」に傍点]、投機師と罵《ののし》っている。世のくだれるをなげきて一道の光を起さんと志すものが、目前の苦しみをのがれるために、尊ぶべき操《みさお》を売ろうかと嘲笑した。とはいえ、救いは願っていたのである。そうした悲しい矛盾を忍ばねばならなかった貧乏は、彼女に女らしさを失わぬ返事を認《したた》めさせた。
(どうかそういう事は仰しゃらないで、大事をするに足りるとお思いになるならば扶助をお与え下さい。でなければ一言《ひとこと》にお断り下さい)
と彼女は明らかな決心を持って、とはいえ事の破れにならぬようにと、余儀なく祈る返事を出した。その後も五十金の借用を申込んだこともある。久佐賀も彼女の家を度々《たびたび》訪ずれた。
久佐賀と懇意になった後《のち》、直に彼女の一家は本郷へ引移った。荒物店を譲って、丸山福山町の阿部家の山添いで、池にそうた小家へ移った。其処は「守喜《もりき》」という鰻屋《うなぎや》の離れ座敷に建てたところで、狭くても気に入った住居であったらしかった。家賃三円にて高しといったのでも、質素な暮しむきが見える。現にこの間《あいだ》、歌舞伎座で河合、喜多村の両優によって、はじめて女史の作が劇として上場されたあの「濁り江」は、この家に移ってから、その近傍の新開地にありがちな飲屋の女を書いたものであった。女史は其処に移ってからもそうした種類の人たちに頼まれて手紙の代筆をしてやった。ある女は女史の代筆でなくてはならないとて、数寄屋《すきや》町の芸妓になった後もわざわざ人力車に乗って書いてもらいに来たという。「濁り江」のお力は、その芸妓になった女をモデルにしたともいわれている。そしてそこが終焉《しゅうえん》の地となった。
引越しの動機が彼女の発起でないことは、
[#ここから2字下げ]
国子はものに堪《たえ》忍ぶの気象とぼし、この分厘にいた
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング