ぎ》の舎《や》が流れの末をくめりとも日々夜々の引まどの烟《けむり》こゝろにかかりていかで古今の清くたかく新古今のあやにめづらしき姿かたちをおもひうかべえられん、ましてやにほの海に底ふかき式部が学芸おもひやらるるままにさかひはるか也、ただいささか六つななつのおさなだちより誰つたゆるとも覚えず心にうつりたるもの折々にかたちをあらはしてかくはかなき文字|沙《ざ》たにはなりつ、人見なばすねものなどことやうの名をや得たりけん、人はわれを恋にやぶれたる身とやおもふ、あはれやさしき心の人々に涙そそぐ我れぞかし、このかすかなる身をささげて誠をあらはさんとおもふ人もなし、さらば我一代を何がための犠牲などこと/″\敷《しく》とふ人もあらん、花は散時《ちりどき》あり月はかくる時あり、わが如きものわが如くして過ぬべき一生なるに、はかなきすねものの呼名《よびな》をかしうて、
うつせみのよにすねものといふなるは
つま子もたぬをいふにや有らん
をかしの人ごとよな(一葉随筆、「棹《さお》のしづく」より)
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と、心を高く持っていたこの人のことを、私は自分の不文を恥じながらも、忠実に書かなければならないと思う。ともかくも、私はまずこの人の生れた月日と、その所縁のつづきあいとを書落さぬうちにしるしておこう。
二
一葉女史は江戸っ子だ、いや甲州生れだという小さな口論争《くちあらそい》を私は折々聴いた。それはどっちも根拠のないあらそいではなかった。女史が生れたのは東京府庁のあった麹町《こうじまち》の山下町に初声《うぶごえ》をあげた。明治五年には他《ほか》にどんな知名の人が生れたか知らぬが、私たち女性の間には、ことに文芸に携わるものには覚えていてよい年であろう。数え年の六歳に本郷《ほんごう》小学校へ入学した。その年は明治の年間でも、末の代まで記憶に残るであろう西南戦争のあった年で、西郷隆盛が若くから国家のために沸かした熱血を、城山の土に濺《そそ》いだ時である。翌年の七歳には特に手習《てならい》師匠にあがった。一葉女史の筆蹟が実に美事であるのも、そうした素養がある上に、後に歌人で千蔭流の筆道の達者であった中島師についたからだ。十五年の夏には下谷《したや》池《いけ》の端《はた》の青海小学校へ移り、その翌年に退校した。その後は他で勉学したとは公にはされていない。十九年になって中島歌子|刀自《とじ》の許《もと》へ通うまでは独学時代であったろうと考えられる。
それまでが女史の両親の揃《そろ》っていた勉学時代、少女時代で、甲州は両親の出生地であった。父君は樋口則義《ひぐちのりよし》、母君は滝《たき》といって、安政年間に志をたてて共に江戸に出、母は稲葉家《いなばけ》に仕え、父は旗本菊池家に奉公し、後に八丁堀《はっちょうぼり》衆(与力同心)に加わった。そして維新後に生れた女史は、両親の第四子で二女である。甲斐《かい》の国東山梨郡大藤村は女史の両親を生んだ懐《なつか》しい故郷なので。
小説「ゆく雲」の中には桂次《けいじ》という学生の言葉をかりて、
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我養家は大藤村の中萩原《なかはぎわら》とて、見わたす限りは天目山《てんもくざん》、大菩薩峠《だいぼさつとうげ》の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙《しろたえ》の富士の嶺《ね》はをしみて面かげを視《しめ》さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚《うお》といひては甲府まで五里の道をとりにやりて、やう/\鮪《まぐろ》の刺身が口に入る位――
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とある。その後の章には、
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小仏《こぼとけ》の峠もほどなく越ゆれば、上野原、つる川、野田尻、犬目、鳥沢も過ぎて猿《さる》はし近くにその夜は宿るべし、巴峡《はきょう》のさけびは聞えぬまでも、笛吹川の響きに夢むすび憂《う》く、これにも腸《はらわた》はたたるべき声あり勝沼よりの端書《はがき》一度とゞきて四日目にぞ七里《ななさと》の消印ある封状二つ……かくて大藤村の人になりぬ。
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と故郷の山野の景色がかなり細叙してある。
父則義氏は廿二年ごろに世を去られた。それからの女史の生活は流転をきわめている。陶工であった兄の虎之助氏は早くから別に一家をなしていたので、女史は母滝子と、妹の国子と、疲細《かぼそ》い女三人の手で、その日の煙りを立てなければならなかった。廿四年廿歳の時から廿九年までの六年間が製作の時代であった。
生活の流転は、その感想、随筆、日記、が明《あか》らさまに語っている。女史の幼時にも彼女の家は転々した。本郷に移り下谷に移り、下谷|御徒町《おかちまち》へ移り、芝|高輪《たかなわ》へ移り、神田《かんだ》神保町《じんぼうちょう》に行き、淡路町《あわじちょう》になった。其処で父君を失ったので、その秋には悲しみの残る家を離れ本郷|菊坂町《きくざかちょう》に住居した。その後|下谷《したや》竜泉寺町に移った。俗に大音寺前《だいおんじまえ》という場処で、吉原の構裏《かまえうら》であった。一葉の家は京町《きょうまち》の非常門に近く、おはぐろ溝《どぶ》の手前側《てまえがわ》であったという。ここの住居の時分から、女史の名は高くなったのである、そして生活の窮乏も極に達していた。荒物店《あらものや》をはじめたのも此家《ここ》のことであれば、母上は吉原の引手茶屋で手のない時には手伝いにも出掛けた。女史と妹の国子とは仕立《したて》ものの内職ばかりでなく蝉表《せみおもて》という下駄《げた》の畳表《たたみおもて》をつくることもした。一葉女史のその家での書斎は、三畳ほどのところであったという。荒物店の三畳の奥で、この閨秀《けいしゅう》の傑作が綴《つづ》りだされようと誰が知ろう、それよりもまた、その文豪が、朝は風呂敷包みを背負って、自ら多町《たちょう》の問屋まで駄菓子を買出しにゆき、蝋燭《ろうそく》を仕入れ、羽織を着ているために嘲笑《ちょうしょう》されたと知ろうか。彼女の家から灯が暁近くなるまで洩《も》れるのは、彼女の創作のためばかりではなかった。あの、筆をもてば、倏忽《たちどころ》に想をのせて走る貴《とうと》い指さきは、一寸の針をつまんで他家の新春の晴着《はれぎ》を裁縫するのであった。半日に一枚の浴衣《ゆかた》を縫いあげるのはさして苦でもなかったらしいが、創作の気分の漲《みなぎ》ってくるおりでも、米の代、小遣《こづか》い銭のために齷齪《あくせく》と針をはこばなくてはならなかったことを想像すると、わびしさに胸が一ぱいになる。明治廿五年の正月には、元日ですら夜まで国子氏と仕立物をしていたという事を日記が語っている。
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国子当時|蝉表《せみおもて》職中一の手利《てきき》に成《なり》たりと風説あり今宵《こよい》は例より、酒|甘《うま》しとて母君大いに酔《よい》給ひぬ。
――片町といふ所の八百屋《やおや》の新|芋《いも》のあかきがみえしかば土産にせんとて少しかふ、道をいそげばしとど汗に成りて目にも口にもながれいるをはんけちもておしぬぐひ/\して――
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とあるのにもその生活の一片が見られる。父の則義氏は漢学の素養もあり文芸の何物かをも知っていられたが、母君は普通の気量《きがさ》な、かなり激しい気質の人であったらしい。日記にあらわれた借財のことは、廿年の九月七日にはじまっている。そして、
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――我身ひとつの故《ゆえ》成《な》りせばいかゞいやしきおり立《たち》たる業《ぎょう》をもして、やしなひ参らせばやとおもへど、母君はいといたく名をこのみ給ふ質《たち》におはしませば、児《じ》賤業をいとなめば我死すともよし、我をやしなはんとならば人めみぐるしからぬ業をせよとなんの給ふ、そもことはりぞかし、我《わが》両方《ふたかた》ははやく志をたて給ひてこの府にのぼり給ひしも、名をのぞみ給へば成りけめ。
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とあるにも母君の面影が知れる。そうした気位が高くていながら、乏しい暮しのために、しかもそうした堅気《かたぎ》の士族出が、社会の最暗黒面である廓《さと》近くに住居して、場末の下層級の者や、流れ寄った諸国の喰詰《くいつ》めものや、そうでなくても闇《やみ》の女の生血《いきち》から絞りとる、泡《あぶ》く銭《ぜに》の下滓《かす》を吸って生きている、低級無智な者の中にはさまれて暮していなければならなかった母君の、ジリジリした気持ち――(気勝者《きしょうもの》)といわれる不幸《ふしあわせ》な気質は、一家三人の共通点であった。
一葉女史が近視眼だったのは、幼時土蔵の二階の窓から、ほんの黄昏《たそがれ》の薄明りをたよりにして、草双紙《くさぞうし》を読んだがためだという事ではあるが、そうした世帯の、細心《ほそしん》の洋燈《ランプ》の赤いひかりは、視力をいためたであろうし、その上に彼女は肩の凝る性分で、かつて、年若い女史にそう早く死の来ることなどは、誰人《たれ》も思いよらなかったおり(死の六年前に)医学博士佐々木東洋氏が「この肩の凝りが下へおりれば命取りだから大事にせよ」と言われたということなどを思って見ても、早世は天命であったかも知れないが、あまり身心を費消させた生活が、彼女の死を早めさせたのだ。
私は頃日《このごろ》、馬琴《ばきん》翁の日記を読返して見て感じたのは、あの文人が八十歳にもなり、盲目にもなっていながら、著作を捨てなかった一生が、女史のそれと同様に、焼火箸《やけひばし》を咽喉《のど》もとに差込まれるような感じをさせることであった。
女史の記録を読むと、明治廿四年――(一葉廿歳の時)十月十日に兄の家は財産差押えになるという通知をうけたくだりに、金三円|斗《ばか》りもあれば破産の不幸にも至るまいという書状から推《お》しても、杖《つえ》とも頼む男兄弟の、たよりにならなかったことがしれ、かえって妹たちの方が苦しいなかからその急を救った。
「家の方は私の稽古着《けいこぎ》を売ってもよいから」といって、親子の膏《あぶら》であり、血となる代《だい》の金四円を、母を車に乗せて夜中ではあれど届けさせた。
ある時は貧に倦《うん》じた老女の繰言《くりごと》とはいえ、
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「あな侘《わび》し、今五年さきに失《うせ》なば、父君おはしますほどに失なば、かゝる憂き、よも見ざらましを我一人残りとゞまりたるこそかへす/″\口をしけれ、我|詞《ことば》を用ひず、世の人はたゞ我れをぞ笑ひ指さすめる、邦《くに》も夏もおだやかにすなほに我やらむといふ処、虎之助がやらむといふ処にだにしたがはゞ何条ことかはあらむ、いかに心をつくりたりとて手を尽したりとて甲斐《かい》なき女の何事をかなし得らるべき、あないやいやかかる世を見るも否《いや》也」
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と朝夕に母に掻《かき》くどかれては、どれほどに心苦しかったであろう。おなじ年(廿六年四月十三日の記に)、
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母君|更《ふけ》るまでいさめたまふ事多し、不幸の子にならじとはつねの願ひながら、折ふし御心《みこころ》にかなひ難きふしの有《ある》こそかなし。
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とあるに知る事が出来る。
朝には買出しの包みを背負って、駄菓子問屋の者たちから「姐《ねえ》さん」とよばれ、午後には貴紳の令嬢たちと膝《ひざ》を交えて「夏子の君」と敬される彼女を、彼女は皮肉に感じもした。けれども恩師中島歌子は、一葉の夏子を自分の跡目をつぐものにしようとまで思っていたのであった。であればこそ、同門の令嬢たちも、一葉という文名|嘖々《さくさく》と登る以前にも、内弟子同様な身分である夏子を卑しめもしなかったのであろう。
ある時、女史は雨傘を一本も持たなかった。高下駄《あしだ》の爪皮《つまかわ》もなかった。小さい日和洋傘《ひよりがさ》で大雨を冒《おか》して師のもとへと通った。またある時は(新年のことであったと思う)晴着がないので、国子の才覚で羽
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