、淡路町《あわじちょう》になった。其処で父君を失ったので、その秋には悲しみの残る家を離れ本郷|菊坂町《きくざかちょう》に住居した。その後|下谷《したや》竜泉寺町に移った。俗に大音寺前《だいおんじまえ》という場処で、吉原の構裏《かまえうら》であった。一葉の家は京町《きょうまち》の非常門に近く、おはぐろ溝《どぶ》の手前側《てまえがわ》であったという。ここの住居の時分から、女史の名は高くなったのである、そして生活の窮乏も極に達していた。荒物店《あらものや》をはじめたのも此家《ここ》のことであれば、母上は吉原の引手茶屋で手のない時には手伝いにも出掛けた。女史と妹の国子とは仕立《したて》ものの内職ばかりでなく蝉表《せみおもて》という下駄《げた》の畳表《たたみおもて》をつくることもした。一葉女史のその家での書斎は、三畳ほどのところであったという。荒物店の三畳の奥で、この閨秀《けいしゅう》の傑作が綴《つづ》りだされようと誰が知ろう、それよりもまた、その文豪が、朝は風呂敷包みを背負って、自ら多町《たちょう》の問屋まで駄菓子を買出しにゆき、蝋燭《ろうそく》を仕入れ、羽織を着ているために嘲笑《ちょうしょう
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