ひおけ》もなく待《まち》あかしていたこともあった。彼女が手伝って掃除《そうじ》すると、まめやかな男主《あるじ》は、手製のおしるこを彼女にと進めたりした。彼女はその日のことを記した末、
[#ここから2字下げ]
半井うしがもとを出《いで》しは四時ころ成りけん、白《はく》皚々《がいがい》たる雪中、りん/\たる寒気をおかして帰る。中々おもしろし、堀ばた通り九段の辺《あたり》、吹《ふき》かくる雪におもてむけがたくて頭巾《ずきん》の上に肩かけすつぽりとかぶりて、折ふし目《め》斗《ばかり》さし出すもをかし、種々の感情胸にせまりて、雪の日といふ小説の一編あまばやの腹稿なる。
[#ここで字下げ終わり]
とある。恋に対して傲慢《ごうまん》であった彼女にも、こうした夢幻境もあった。恋という感想に、
[#ここから2字下げ]
我はじめよりかの人に心をゆるしたることもなく、はた恋し床《ゆか》しなどと思ひつることかけてもなかりき。さればこそあまたたびの対面に人げなき折々はそのことゝもなく打かすめてものいひかけられしことも有《あり》しが、知らず顔につれなうのみもてなしつるなり。さるを今しもかう無き名など世にうたはれて初《はじめ》て処せくなりぬるなん口惜《くちお》しとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやしき物なりかし、この頃降りつゞく雨の夕べなどふと有し閑居のさま、しどけなき打とけたる姿などそこともなくおもかげに浮びて、彼《か》の時はかくいひけり、この時はかう成りけん、さりし雪の日の参会の時手づから雑煮《ぞうに》にて給はりし事、母様の土産にしたまへと、干魚の瓶漬送られしこと、我参る度々に嬉しげにもてなして帰らんといへば今しばし/\君様と一夕の物語には積日の苦をも忘るるものを、今三十分二十五分と時計打眺めながら引止められしことまして我ためにとて雑誌の創立に及ばれしことなどいへば更なり、久しう病《わず》らひ給ひその後まだよわよわと悩ましげながら、夏子さま召上りものは何がお好きぞや、この頃の病のうち無聊《ぶりょう》堪《たえ》がたく夫《それ》のみにて死ぬべかりしを朝な夕なに訪ひ給ひし御恩何にか比せん、御礼には山海の珍味も及ぶまじけれどとて、兄弟などのやうにの給ふ。我料理は甚だ得手なり殊に五もくずし調ずること得意なれば、近きに君様正客にしてこの御馳走《ごちそう》申すべしと約束したりき。さるにてもその手づからの調理ものは、いつのよいかにして賜はることを得べきなど思ひ出《いづ》るまゝに有しこと恋しく、世の人のうらめしう、今より後の身心ぼそうなど取あつめて一つ涙ひぬものから、かく成行《なりゆき》しも誰ゆゑかは、その源はかの人みづから形もなき事まざ/\言触しうしたればこそ……
[#ここで字下げ終わり]
とあるが、その実は野々宮某という女友達の嫉妬《しっと》から言触らされたのを知らなかったのである。
 彼女は恋人から離れたと思い信じたが、彼女の心はそうゆかなかった。或時は、
[#ここから4字下げ]
吹風のたよりはきかじ荻《おぎ》の葉の
    みだれて物を思ふころかな
[#ここで字下げ終わり]
とまで思い乱れ、またある時は伯父《おじ》の病床に侍して(かゝる時の折ふしにも猶《なお》彼の人を忘れ難きはなぞや)といい、ある時は用もなきに近き路《みち》をえらんでゆき、その人の住む家の前を通りて見、その家の下女《げじょ》に行逢《ゆきあ》いて近状を聞き、(万感万嘆この夜|睡《ねむ》ることかたし)と書いたのは、彼女の青春二十一歳のことであった。次の年の一月二十九日雪の降るのを見つつ、
[#ここから4字下げ]
わが思ひ、など降る雪のつもりけん
    つひにとくべき中にもあらぬを
[#ここで字下げ終わり]
と嘆き四月の雨の日の記には、
[#ここから2字下げ]
わが心より出たるかたちなればなどか忘れんとして忘るゝにかたき事やあると、ひたすら念じて忘れんとするほど、唯身にせまりくるがごとおもかげのまのあたりに見えて得《え》堪ゆべくも非《あら》ず、ふと打みじろげばかの薬の香のさとかをる心地して思ひやる心や常に行通ふとそゞろおそろしきまでおもひしみたる心なり、かの六条の御息所《みやすどころ》のあさましさを思ふにげに偽りともいはれざりける。
    おもひやる心かよはゞみてもこん
        さてもやしばしなぐさめぬべく

    恋は、
見ても聞きてもふと思ひ初《そ》むるはじめいと浅し、
いはでおもふいと浅し、
これよりもおもひかれよりも思はれぬるいと浅し、
これを大方《おおかた》のよに恋の成就《じょうじゅ》とやいふならん、逢《あい》そめてうたがふいと浅し、
わすられてうらむいと浅し、
逢んことは願はねど相思はん事を願ふいと浅し、
名取川《なとりがわ》瀬々のうもれ木あらはればと人のため我ためををしむ
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング