樋口一葉
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)病葉《わくらば》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小伝の主|一葉《いちよう》女史

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)やう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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       一

 秋にさそわれて散る木の葉は、いつとてかぎりないほど多い。ことに霜月は秋の末、落葉も深かろう道理である。私がここに書こうとする小伝の主|一葉《いちよう》女史も、病葉《わくらば》が、霜の傷《いた》みに得《え》堪《たえ》ぬように散った、世に惜まれる女《ひと》である。明治二十九年十一月二十三日午前に、この一代の天才は二十五歳のほんに短い、人世の半《なかば》にようやく達したばかりで逝《い》ってしまった。けれど布は幾百丈あろうともただの布であろう。蜀江《しょくこう》の錦《にしき》は一寸でも貴く得難い。命の短い一葉女史の生活の頁《ページ》には、それこそ私たちがこれからさき幾十年を生伸びようとも、とてもその片鱗《へんりん》にも触れることの出来ないものがある。一葉女史の味わった人世の苦味《にがみ》、諦《あきら》めと、負《まけ》じ魂との試練を経た哲学――
 信実のところ私は、一葉女史を畏敬《いけい》し、推服してもいたが、私の性質《さが》として何となく親しみがたく思っていた。虚偽《いつわり》のない、全くの私の思っていたことで、もし傍近くにいたならば、チクチクと魂にこたえるような辛辣《しんらつ》なことを言われるに違いないというようにも思ったりした。それはいうまでもなくそんな事を考えたのは、一葉女史の在世中の私ではない、その折はあまり私の心が子供すぎて、ただ豪《えら》いと思っていたに過ぎなかった。明治四十五年に、故人の日記が公表《おおやけ》にされてからである。私は今更、夢の多かった生活、いつも居眠りをしていたような自分を恥じもするが――幾度かその日記を繙《ひもと》きかけては止《や》めてしまった。愛読しなかったというよりは、実は通読することすら厭《いや》なのであった。それは私の、衰弱しきった神経が厭《いと》ったのであったが、あの日記には美と夢とがあまりすくなくて、あんまり息苦しいほどの、切羽《せっぱ》詰った生活が露骨に示されているのを、私は何となく、胸倉《むなぐら》をとられ、締めつけられるような切なさに堪えられぬといった気持ちがして、そのため読む気になれなかった。
 しかし、今はどうかというに、私も年齢《よわい》を加えている。そして、様々のことから、心の目を、少しずつ開かれ風流や趣味に逃げて、そこから判断したことの錯誤《あやまち》をさとるようになった。この折こそと思って、私は長くそのままにしておいた一葉女史の日記を読むことにした。すこしでも親しみを持ちたいと思いながら――
 で、お前はどう思ったか?
と誰かにたずねてもらいたいと思う。何故ならば、私はせまい見解を持ったおりに、よくこの日記を読まないでおいたと思ったことだった。拗《ひね》くれた先入観があっては、私はこの故人を、こう彷彿《ほうふつ》と思い浮べることは出来なかったであろう。よくこそ時機のくるのを待っていたと思いながら、日記のなかの、ある行にゆくと、瞼《まぶた》を引き擦《こす》るのであった。それで私に、そのあとでの、故人の感じはと問えば、私はこう答えたい気がする。
 蕗《ふき》の匂《にお》いと、あの苦味
 お世辞気のちっともない答えだ。四月のはじめに出る青い蕗のあまり太くない、土から摘立てのを歯にあてると、いいようのない爽《さわ》やかな薫《かお》りと、ほろ苦い味を与える。その二つの香味《こうみ》が、一葉女史の姿であり、心意気であり、魂であり、生活であったような気がする。
 文芸評に渡るようにはなるが、作物を通して見た一葉女史にも、ほろ苦い涙の味がある。どの作のどの女《ひと》を見ても、幽艶、温雅、誠実、艶美、貞淑の化身《けしん》であり、所有者でありながら、そのいずれにも何かしら作者の持っていたものを隠している。柔風《やわかぜ》にも得《え》堪《たえ》ない花の一片《ひとひら》のような少女、萩《はぎ》の花の上におく露のような手弱女《たおやめ》に描きだされている女たちさえ、何処にか骨のあるところがある。ことに「にごり江」のお力《りき》、「やみ夜」のお蘭《らん》、「闇桜《やみざくら》」の千代子、「たま襷《だすき》」の糸子、「別れ霜」のお高《たか》、「うつせみ」の雪子、「十三夜」のお関《せき》、「経づくえ」のお園――と数えれば数えるものの、二十四年から二十八年へかけての五年間、二十五編の作中
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