たぐひ、うきに過たる年月のいつぞは打とけてとはかなきをかぞへ、心はかしこに通ふものか、身は引離れてことさまになりゆく、さては操を守りて百年《ももとせ》いたづらぶしのたぐひ、いづれか哀れならざるべき、されど恋に酔ひ恋に狂ひ、この恋の夢さめざらんなかなかこの夢のうちに死なんとぞ願ふめる、おもへば浅きことなり――誠|入立《いりたち》ぬる恋のおくに何物かあるべきもしありといはゞみぐるしく、憎く、憂く、愁《つら》く、浅間しく、かなしく、さびしく、恨めしく取つめていはんには厭《いとわ》しきものよりほかあらんとも覚《おぼ》えず、あはれその厭ふ恋こそ恋の奥なりけれ……
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彼女の恋の信仰は頑固であった。彼女は何処までも人生のほろにがさ[#「ほろにがさ」に傍点]を好んだ。
暖かくかなしい心持を抱《いだ》いて帰った雪の途中で出来上った小説「雪の日」は、その翌年に発表された。十六になる薄井《うすい》の一人娘お珠《たま》が、桂木《かつらぎ》一郎という教師と家出をしたというのが筋である。「媒《なかだち》は過し雪の日ぞかし」ともあれば「かくまでに師は恋しかりしかど、ゆめさらこの人を夫と呼びて、倶《とも》に他郷の地をふまんとは、かけても思ひよらざりしを、行方なしや迷ひ……窓の呉竹《くれたけ》ふる雪に心|下折《したお》れて、我も人も、罪は誠の罪になりぬ」
とある。言わずともわが身――世馴《よな》れぬ無垢《むく》の乙女《おとめ》なればこうもなろうかと、彼女自身がそうもなりかねぬ心の裏《うち》を書いて見たものと見ることが出来よう。
彼女は恋に破れても名には勝った。困窮は堪《たえ》忍び得たが病苦には打敗《うちまけ》てしまった。彼女の生存の末期は作品の全盛時にむかっていた。『国民の友』の春季附録には、江見水蔭《えみすいいん》、星野天知《ほしのてんち》、後藤宙外《ごとうちゅうがい》、泉鏡花に加えて彼女の「別れ路《みち》」が出た。評家は口をそろえて彼女を讃《たた》えた。世人はそれを「道成寺《どうじょうじ》」に見たて、彼女を白拍子《しらびょうし》一葉とし、他のものを同宿坊と言伝えたほどであった。それは二十九年一月のことである。その年の四月には咽喉《のど》が腫《は》れ、七月初旬には日々卅九度の熱となった。山竜堂《さんりゅうどう》樫村《かしむら》博士も、青山博士も医療は無効だと断言した。十一月の三日ごろから逆上《のぼせ》のために耳が遠くなってしまった。そして二十三日午前に逝去《せいきょ》した。かつて知人の死去のおりに持参する香奠《こうでん》がないとて、
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我こそは達磨《だるま》大師になりにけれとぶらはんにもあしなしにして
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といい、また他行のため洗張《あらいは》りさせし衣を縫うに、はぎものに午前だけかかり、下まえのえり五つ、袖《そで》に二つはぐとて、
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宮城《みやぎ》のにあらぬものからから衣なども木萩《こはぎ》のしげきなるらん
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と恬然《てんぜん》と一笑した人の墓石は、現今も築地《つきじ》本願寺の墓地にある。その石の墓よりも永久に残るのは、短い五年間に書残していった千古不滅の、あの名作名篇の幾つかである。
[#地から2字上げ]――大正七年六月――
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昭和十年末日附記 随筆集『筆のまに/\』は、佐佐木|竹柏園《ちくはくえん》先生御夫妻の共著だが、その一二五頁「思ひ出づるまに/\」大正七年六月の一節に「自分がいつか夏目漱石さんの所へ遊びに行って昔話などをした時、夏目さんが、自分の父と一葉さんの父とは親しい間柄で、一葉さんは幼い時に兄の許嫁《いいなずけ》のようになっていた事もあったと言われた。明治の二大文豪の間に、さる因縁があったとは面白いことである」とあった。
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底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
2001(平成13)年7月9日第5刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年発行
初出:「婦人画報」
1918(大正7)年6〜8、10月
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2006年1月21日作成
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