みに離間しようとして成功した。とはいえ、その実それは、一葉自身の弱点でもあった。
恋するものの女らしさ――私はそう思う時に女心の優しさにほほえまずにはいられない。それは彼女が初めて島田|髷《まげ》に結《ゆ》った時のことである。その日彼女が半井氏を訪れたのは、人の口に仇名《あだな》がのぼり、あらぬ名をうたわれるのを憤って、暫時、絶交しようと思っての訪問であった。そうした日であるのに、珍らしくも一葉は島田髷の初結《はつゆい》をした。その日は二十五年六月二十五日のことである。
「しのぶぐさ日記」には、
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梅雨《つゆ》降りつゞく頃はいと侘《わび》し、うしがもとにはいと子君|伯母《おば》君|二処《にしょ》居たり、君は次の間の書室めきたるところに打ふし居たまへり。雨いたく降りこめばにや雨戸残りなくしめこめていと闇《くら》し、いと子君伯母なる人に向ひて、御覧《ごろう》ぜよ樋口さまのお髪《ぐし》のよきこと、島田は実によく似合給へりといへば、伯母君も実に左《さ》なり/\、うしろ向きて見せたまへ、まことに昔の御殿風と見えて品よき髷の形かな。我は今様《いまよう》の根の下りたるはきらひなどいひ給ふ。半井君つと立《たち》て、いざや美しうなりたまひし御姿みるに余りもさし込めたる事よとて、雨戸二、三枚引あく、口の悪き男かなとて人々笑ふ。我もほゝゑむものから、あの口より世になき事やいひふらしつると思ふにくらしさに、我しらずにらまへもしつべし。
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とある。けれども、何のためにさまで憎く思ったかといえば、その前日、彼女が師の家にて同門の友達と雑談にふけったおり、誰彼の噂《うわさ》に夜をふかすうちに、姦《かしま》しきがつねとて、誰にはかかる醜行あり、彼れにはこうした汚行ありと論《あげ》つらうを聞いて、彼女はもう臥床《ふしど》に入ろうとした師歌子の枕|許《もと》へいって身の相談をしようとした。それは、それより前の日に、伊藤夏子という人が席を立って一葉をものかげに呼び、声をひそめて、
「貴女は世の中の義理の方が重いとお思いなさるか、それとも御家名の方が惜《おし》いと思いなさるか」
と聞かれたので、
「世の義理は重んじなければならないものだと私は思います。けれども家の名も惜くないことはありません。甲乙がないといいたいけれど、どうも私の心は家の方へ引かれがちです。何故《なぜ》というのに、自分ばかりのことでなく、母もあれば兄妹《きょうだい》もあるので」
と答えた。
「では言わなければならないことでありますが、貴女は半井さんと交際を断つ訳にはいかないでしょうか」
といった。
彼女は友の視線があまりまぶしいので、何事と知らねど胸の中にもののたたまるように思われた。
「妙なことを仰しゃるのね。それは何時《いつ》ぞやもお咄《はなし》したとおり、あの方はお齢《とし》も若いし、美しい御顔でもあるし私が行ったりするのは、憚《はば》からなけりゃなるまいと思っています。幾度交際を断とうと思ったかも知れはしません。けれど受けた恩義もあり、そうは出来かねているのよ、私というものの行いに、汚れのないのを御存知でありながら……」
と彼女は怨《うら》みもした。
「そりゃあ道理はそうですけれど――まあ訳はいずれ話しますが、どうしても交際が断てないというのならば、私でも疑うかもしれませんよ」
そういって友は立別れた。一葉は、ふとその日の訝《いぶか》しい友の言葉を思い出したので、歌子によってその惑いを解いてもらおうとしたのであった。
「半井さんの事は先生がよく御承知であって、訪問をお止めにならないのを、何ぞ噂するのでございましょうか」
と歌子にたずねた。すると歌子の返事は、実に意外に彼女の耳に鳴り響いた。
「では、行末の約束を契ったのではないのか」と。
彼女は仰天して、七年の年月を傍においた弟子の愚直な心を知らないのかと、怨《うら》み泣いた。
「でも、半井氏という人は、お前は妻だと言《いい》触らしているというではないか。もし縁があってゆるしたのならば、他人がなんと言おうとも聞入れないがよい。もしそうでないのならば、交際しない方がよいだろう」
と歌子は諭《さと》した。それ故にこそ彼女は梅雨の日を訪ずれたのである。そして、絶交する人の目に、島田に結んだ姿を残そうとしたのである。
愛するあまりに、妻とも言ったであろうかの恋人に、その故に絶交しなければならない彼女は、たった一月前には思う人の病を慰めるためにと、乏しい中から下谷の伊予紋《いよもん》(料理店)へよって、口取りをあつらえたり、本郷の藤村へ立寄って蒸《むし》菓子を買いととのえたりして訪れていた。ある時は、朝早くから訪れて午過《ひるす》ぎまで目ざめぬ人を、雪の降る日の玄関わきの小座敷につくねんと、火桶《
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