されていない。十九年になって中島歌子|刀自《とじ》の許《もと》へ通うまでは独学時代であったろうと考えられる。
 それまでが女史の両親の揃《そろ》っていた勉学時代、少女時代で、甲州は両親の出生地であった。父君は樋口則義《ひぐちのりよし》、母君は滝《たき》といって、安政年間に志をたてて共に江戸に出、母は稲葉家《いなばけ》に仕え、父は旗本菊池家に奉公し、後に八丁堀《はっちょうぼり》衆(与力同心)に加わった。そして維新後に生れた女史は、両親の第四子で二女である。甲斐《かい》の国東山梨郡大藤村は女史の両親を生んだ懐《なつか》しい故郷なので。
 小説「ゆく雲」の中には桂次《けいじ》という学生の言葉をかりて、
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我養家は大藤村の中萩原《なかはぎわら》とて、見わたす限りは天目山《てんもくざん》、大菩薩峠《だいぼさつとうげ》の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙《しろたえ》の富士の嶺《ね》はをしみて面かげを視《しめ》さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚《うお》といひては甲府まで五里の道をとりにやりて、やう/\鮪《まぐろ》の刺身が口に入る位――
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とある。その後の章には、
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小仏《こぼとけ》の峠もほどなく越ゆれば、上野原、つる川、野田尻、犬目、鳥沢も過ぎて猿《さる》はし近くにその夜は宿るべし、巴峡《はきょう》のさけびは聞えぬまでも、笛吹川の響きに夢むすび憂《う》く、これにも腸《はらわた》はたたるべき声あり勝沼よりの端書《はがき》一度とゞきて四日目にぞ七里《ななさと》の消印ある封状二つ……かくて大藤村の人になりぬ。
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と故郷の山野の景色がかなり細叙してある。

 父則義氏は廿二年ごろに世を去られた。それからの女史の生活は流転をきわめている。陶工であった兄の虎之助氏は早くから別に一家をなしていたので、女史は母滝子と、妹の国子と、疲細《かぼそ》い女三人の手で、その日の煙りを立てなければならなかった。廿四年廿歳の時から廿九年までの六年間が製作の時代であった。
 生活の流転は、その感想、随筆、日記、が明《あか》らさまに語っている。女史の幼時にも彼女の家は転々した。本郷に移り下谷に移り、下谷|御徒町《おかちまち》へ移り、芝|高輪《たかなわ》へ移り、神田《かんだ》神保町《じんぼうちょう》に行き、淡路町《あわじちょう》になった。其処で父君を失ったので、その秋には悲しみの残る家を離れ本郷|菊坂町《きくざかちょう》に住居した。その後|下谷《したや》竜泉寺町に移った。俗に大音寺前《だいおんじまえ》という場処で、吉原の構裏《かまえうら》であった。一葉の家は京町《きょうまち》の非常門に近く、おはぐろ溝《どぶ》の手前側《てまえがわ》であったという。ここの住居の時分から、女史の名は高くなったのである、そして生活の窮乏も極に達していた。荒物店《あらものや》をはじめたのも此家《ここ》のことであれば、母上は吉原の引手茶屋で手のない時には手伝いにも出掛けた。女史と妹の国子とは仕立《したて》ものの内職ばかりでなく蝉表《せみおもて》という下駄《げた》の畳表《たたみおもて》をつくることもした。一葉女史のその家での書斎は、三畳ほどのところであったという。荒物店の三畳の奥で、この閨秀《けいしゅう》の傑作が綴《つづ》りだされようと誰が知ろう、それよりもまた、その文豪が、朝は風呂敷包みを背負って、自ら多町《たちょう》の問屋まで駄菓子を買出しにゆき、蝋燭《ろうそく》を仕入れ、羽織を着ているために嘲笑《ちょうしょう》されたと知ろうか。彼女の家から灯が暁近くなるまで洩《も》れるのは、彼女の創作のためばかりではなかった。あの、筆をもてば、倏忽《たちどころ》に想をのせて走る貴《とうと》い指さきは、一寸の針をつまんで他家の新春の晴着《はれぎ》を裁縫するのであった。半日に一枚の浴衣《ゆかた》を縫いあげるのはさして苦でもなかったらしいが、創作の気分の漲《みなぎ》ってくるおりでも、米の代、小遣《こづか》い銭のために齷齪《あくせく》と針をはこばなくてはならなかったことを想像すると、わびしさに胸が一ぱいになる。明治廿五年の正月には、元日ですら夜まで国子氏と仕立物をしていたという事を日記が語っている。
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国子当時|蝉表《せみおもて》職中一の手利《てきき》に成《なり》たりと風説あり今宵《こよい》は例より、酒|甘《うま》しとて母君大いに酔《よい》給ひぬ。
――片町といふ所の八百屋《やおや》の新|芋《いも》のあかきがみえしかば土産にせんとて少しかふ、道をいそげばしとど汗に成りて目にも口にもながれいるをはんけちもておしぬぐひ/\して――
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とあるのにもその生活の一片が見られる。
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