父の則義氏は漢学の素養もあり文芸の何物かをも知っていられたが、母君は普通の気量《きがさ》な、かなり激しい気質の人であったらしい。日記にあらわれた借財のことは、廿年の九月七日にはじまっている。そして、
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――我身ひとつの故《ゆえ》成《な》りせばいかゞいやしきおり立《たち》たる業《ぎょう》をもして、やしなひ参らせばやとおもへど、母君はいといたく名をこのみ給ふ質《たち》におはしませば、児《じ》賤業をいとなめば我死すともよし、我をやしなはんとならば人めみぐるしからぬ業をせよとなんの給ふ、そもことはりぞかし、我《わが》両方《ふたかた》ははやく志をたて給ひてこの府にのぼり給ひしも、名をのぞみ給へば成りけめ。
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とあるにも母君の面影が知れる。そうした気位が高くていながら、乏しい暮しのために、しかもそうした堅気《かたぎ》の士族出が、社会の最暗黒面である廓《さと》近くに住居して、場末の下層級の者や、流れ寄った諸国の喰詰《くいつ》めものや、そうでなくても闇《やみ》の女の生血《いきち》から絞りとる、泡《あぶ》く銭《ぜに》の下滓《かす》を吸って生きている、低級無智な者の中にはさまれて暮していなければならなかった母君の、ジリジリした気持ち――(気勝者《きしょうもの》)といわれる不幸《ふしあわせ》な気質は、一家三人の共通点であった。
一葉女史が近視眼だったのは、幼時土蔵の二階の窓から、ほんの黄昏《たそがれ》の薄明りをたよりにして、草双紙《くさぞうし》を読んだがためだという事ではあるが、そうした世帯の、細心《ほそしん》の洋燈《ランプ》の赤いひかりは、視力をいためたであろうし、その上に彼女は肩の凝る性分で、かつて、年若い女史にそう早く死の来ることなどは、誰人《たれ》も思いよらなかったおり(死の六年前に)医学博士佐々木東洋氏が「この肩の凝りが下へおりれば命取りだから大事にせよ」と言われたということなどを思って見ても、早世は天命であったかも知れないが、あまり身心を費消させた生活が、彼女の死を早めさせたのだ。
私は頃日《このごろ》、馬琴《ばきん》翁の日記を読返して見て感じたのは、あの文人が八十歳にもなり、盲目にもなっていながら、著作を捨てなかった一生が、女史のそれと同様に、焼火箸《やけひばし》を咽喉《のど》もとに差込まれるような感じをさせることであった。
女史の記録を読むと、明治廿四年――(一葉廿歳の時)十月十日に兄の家は財産差押えになるという通知をうけたくだりに、金三円|斗《ばか》りもあれば破産の不幸にも至るまいという書状から推《お》しても、杖《つえ》とも頼む男兄弟の、たよりにならなかったことがしれ、かえって妹たちの方が苦しいなかからその急を救った。
「家の方は私の稽古着《けいこぎ》を売ってもよいから」といって、親子の膏《あぶら》であり、血となる代《だい》の金四円を、母を車に乗せて夜中ではあれど届けさせた。
ある時は貧に倦《うん》じた老女の繰言《くりごと》とはいえ、
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「あな侘《わび》し、今五年さきに失《うせ》なば、父君おはしますほどに失なば、かゝる憂き、よも見ざらましを我一人残りとゞまりたるこそかへす/″\口をしけれ、我|詞《ことば》を用ひず、世の人はたゞ我れをぞ笑ひ指さすめる、邦《くに》も夏もおだやかにすなほに我やらむといふ処、虎之助がやらむといふ処にだにしたがはゞ何条ことかはあらむ、いかに心をつくりたりとて手を尽したりとて甲斐《かい》なき女の何事をかなし得らるべき、あないやいやかかる世を見るも否《いや》也」
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と朝夕に母に掻《かき》くどかれては、どれほどに心苦しかったであろう。おなじ年(廿六年四月十三日の記に)、
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母君|更《ふけ》るまでいさめたまふ事多し、不幸の子にならじとはつねの願ひながら、折ふし御心《みこころ》にかなひ難きふしの有《ある》こそかなし。
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とあるに知る事が出来る。
朝には買出しの包みを背負って、駄菓子問屋の者たちから「姐《ねえ》さん」とよばれ、午後には貴紳の令嬢たちと膝《ひざ》を交えて「夏子の君」と敬される彼女を、彼女は皮肉に感じもした。けれども恩師中島歌子は、一葉の夏子を自分の跡目をつぐものにしようとまで思っていたのであった。であればこそ、同門の令嬢たちも、一葉という文名|嘖々《さくさく》と登る以前にも、内弟子同様な身分である夏子を卑しめもしなかったのであろう。
ある時、女史は雨傘を一本も持たなかった。高下駄《あしだ》の爪皮《つまかわ》もなかった。小さい日和洋傘《ひよりがさ》で大雨を冒《おか》して師のもとへと通った。またある時は(新年のことであったと思う)晴着がないので、国子の才覚で羽
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