らしいけれどね。」
母は、娘を、非凡な才智をもつものと見ている。それは、雪深い国では、何処《どこ》にもちょっと見当らない、薫《かお》りの高い一輪の名花だった。
この娘を東京へ出して、思うままに修業をさせたら――それこそ小野の小町などは、明治の、才色兼備の娘に名誉を譲るだろう。
そう思う母人《ははびと》の生れ育った時代は、幕末、明治と進歩進取の世に生れあわせていた。奥羽の各藩もさまざまの艱苦《かんく》の後、会津《あいづ》生れの山川|捨松《すてまつ》は十二歳(後の東大総長山川健次郎男の妹、大山|巌《いわお》公の夫人、徳冨蘆花《とくとみろか》の小説「不如帰《ほととぎす》」では、浪子――本名信子さんといった女の後の母に当る人)、津田英語塾の創立者津田梅子女史は九歳、その他、七、八人の、十七、八歳を頭《かしら》にした一行と、海外へ留学した最初の人を出したりして、その後も、何やかと、幕末からつづいた、新旧の、女丈夫たちに刺戟《しげき》されて来ているので、東京では、もうすっかり急進欧化の反動期にはいっているときに、奥羽の隅《すみ》の家庭人は、かえって、そのころになって動いていた。
「あたしも、
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