ったっけなあ。」
「あら、そんなことなんか、なかったわ。」
錦子は思い出にカッカする頬をおさえた。
「あるよ、山下町だったかでも査公に一ぺん咎《とが》められたし、たしかこの家の門前でも咎められたよ。咄《はな》さなかったかねえ、自分の家へ、盗人《ぬすっと》にはいる奴もないじゃないか。」
フッと、莨《タバコ》の煙を、錦子に吹きかけたが
「ハア? 違ったかな。すると、あれは静《しず》嬢だったかな。そうだ、思い出した、前の日に伯母《おば》さんにぶたれたと言ったっけ。」
こともなげに言いはしたが、錦子の血がサッと逆流するのを意地わるくはかるように、
「なにを妙な顔をしてんのさ。そんな女、今ごろいるもんかね。みんな追っぱらっちゃった。」
バタバタそこらの書籍を引っぱり出して抛《ほう》り出しながら、
「あ、こんないたずら書きがしてある。見たまえ。」
眼をよせて考えこんでしまっている錦子の手をグイと引っぱって差しつけたのは、
労役を恥《はじ》ぬを妻とする。芸妓《げいしゃ》前髪を気にする。と二行にならべて書いてある美妙の落書したものだった。
間もなく、小石川久堅町《こいしかわひさかたまち》
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