だが、錦子が煩悶《はんもん》に煩悶した三、四年の間を、美妙と留女との歓楽はつづいて、前川――浅草花川戸の鰻《うなぎ》屋――に行き、亀井戸の藤から本所《ほんじょ》四ツ目の植文《うえぶん》の牡丹《ぼたん》見物としゃれ、万梅《まんばい》――浅草公園|伝法院《でんぼういん》わきの一流|割烹店《かっぽうてん》――で食事をし、歌舞伎座見物の帰りは、銀座で今広《いまひろ》の鶏《とり》をたべるといったふうだった。
 美妙という人が、どんな生活をしていたかということが、稲舟はどうして死んだか、ということと、袷《あわせ》の裏表になるのだが、紙数をとるから、そんな事ばかりは書いていられない。塩田良平氏が美妙の日記を研究発表されるということであるから、やがて世に知れるであろう。
 とはいえ、世の中は悲しくも面白いものだ。その二十六年には、十二階に百美人の写真が出たのだ。あの、市村羽左衛門《いちむらうざえもん》との情話で名高い、新橋の洗い髪のお妻が、髪結銭《かみゆいせん》もなく、仕方なしに、髪をあらったままで写した写真が百美人一等当選だったのを、美妙が六銭の入場料をはらって見て、そしてお留《とめ》のところへ
前へ 次へ
全62ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング