来たのかと、気にもかけなかったであろう美妙に、ハッと目を瞶《みは》らせた。
 美妙は、たしか二十歳ごろから四、五年の間、女学生向きの『いらつめ』という月刊雑誌を出したりして、若い女性たちとも、顔をあわせることも多くあったし、その時分も、浅草公園裏の薄茶の店の、石井おとめとの関係もあったのだが、この小説家志願娘には心をひかれた。
 ――いなにはあらぬいなぶねの――
 そんな句も、詩人美妙の胸には、ふと浮かんだかも知れない。
「稲舟《いなぶね》って好い名だな。錦子さんでも好いけれど、最上川《もがみがわ》がそばなのでしょう。みちのくというと、最上川だの、名取川だの、衣川《ころもがわ》だの、北上川《きたかみがわ》だのって、なつかしい川の名が多い。父が、ずっと、あっちにいたからかも知れないが――」
 美妙は、無口な娘を前にして、そんなことをいった。
 美妙斎のお父さんは、維新前後奥州の方にいっていて、美妙の武太郎は明治元年の夏留守中に生れたのだった。その後、長野県の方にお父さんは警部をつとめていて、美妙は、やかましい祖母《おばあ》さんと、お母さんに育てられた、内気な、おとなしい息子《むすこ》だっ
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