剥《む》いてる奴があるから――落目さ。そりゃあ、僕だって、このままでないという事は、自信はあるけれども。」
「どうしても、このお家《うち》を、お離れにならなければ、いけませんの。」
 不自由なく育った錦子には、住居《すまい》を売って立退《たちの》くということは、没落ということを、眼で見ることだと思った。
「あたしが、いけなかったのでしょうか。」
と、自分の責《せめ》のように、家のなかを見廻した。小説修業の女弟子などが出はいりするのが、美妙が軽薄才子のように罵《ののし》られる種《たね》なのではないかと案じた。
「そんなことは、どうでもいいさ。この辺はね、金満家の住居や、別荘には――別荘って、妾宅《しょうたく》だよ。」
とニヤリとして、
「閑静で、便利でもって来いの土地さ。景色は好いし、われわれふぜいのボロ家は、だんだんなくなるさ。」
 だから、今日は書斎の整理をすこし手伝ってもらおうかといった。
「ここのお室《へや》、なつかしくって――」
 錦子が湿っぽくなるのを、
「君がはじめて来てくれたのは、二十四年だったかね。そうそう、君をおくった帰途《かえり》に、巡査に咎《とが》められたことがあったっけなあ。」
「あら、そんなことなんか、なかったわ。」
 錦子は思い出にカッカする頬をおさえた。
「あるよ、山下町だったかでも査公に一ぺん咎《とが》められたし、たしかこの家の門前でも咎められたよ。咄《はな》さなかったかねえ、自分の家へ、盗人《ぬすっと》にはいる奴もないじゃないか。」
 フッと、莨《タバコ》の煙を、錦子に吹きかけたが
「ハア? 違ったかな。すると、あれは静《しず》嬢だったかな。そうだ、思い出した、前の日に伯母《おば》さんにぶたれたと言ったっけ。」
 こともなげに言いはしたが、錦子の血がサッと逆流するのを意地わるくはかるように、
「なにを妙な顔をしてんのさ。そんな女、今ごろいるもんかね。みんな追っぱらっちゃった。」
 バタバタそこらの書籍を引っぱり出して抛《ほう》り出しながら、
「あ、こんないたずら書きがしてある。見たまえ。」
 眼をよせて考えこんでしまっている錦子の手をグイと引っぱって差しつけたのは、
 労役を恥《はじ》ぬを妻とする。芸妓《げいしゃ》前髪を気にする。と二行にならべて書いてある美妙の落書したものだった。
 間もなく、小石川久堅町《こいしかわひさかたまち》
前へ 次へ
全31ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング