田沢稲船
長谷川時雨

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)緑青《ろくしょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山田|美妙斎《びみょうさい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)朝※[#「白/八」、第3水準1−14−51]《あさがお》
−−

       一

 赤と黄と、緑青《ろくしょう》が、白を溶いた絵の具皿のなかで、流れあって、虹《にじ》のように見えたり、彩雲《あやぐも》のように混じたりするのを、
「あら、これ――」
 絵の具皿を持っていた娘は呼んだ。
「山田|美妙斎《びみょうさい》の『蝴蝶《こちょう》』のようだわ。」
 乙姫《おとひめ》さんの竜《たつ》の都からくる春の潮の、海洋《わたつみ》の霞《かすみ》が娘の目に来た。
 山田美妙斎は、尾崎|紅葉《こうよう》、川上|眉山《びざん》たちと共に、硯友社《けんゆうしゃ》を創立したところの眉毛《まゆげ》美しいといわれた文人で、言文一致でものを書きはじめ『国民の友』へ掲載した「蝴蝶」は、いろいろの意味で評判が高かったのだ。
 源平屋島の戦いに、御座船《ござぶね》をはじめ、兵船もその他も海に沈みはてたとき、やんごとなき御女性に仕えていた蝴蝶という若い女も、一たん海の底に沈んだが、思いがけず、なぎさに打上げられた。それは春の日のことで、霞める浦輪《うらわ》には、寄せる白波のざわざわという音ばかり、磯の小貝は花のように光っている閑《のど》かさだった。見る人もなしと、思いがけなく生を得た蝴蝶は、全裸《まはだか》になった――そのあたりを思いだしたのだ。
「あたし、小説を書こう。」
 十七の娘、田沢|錦子《きんこ》は、薬指ににじむ、五彩の色をじっと見ながら、自分にいった。

 空はまっ青で、流れる水はふくらんでいる――
 何処《どこ》にか、雪消《ゆきげ》の匂いを残しながら、梅も、桜も、桃も、山吹《やまぶき》さえも咲き出して、蛙《かわず》の声もきこえてくれば、一足外へ出れば、野では雉子《きじ》もケンケンと叫び、雲雀《ひばり》はせわしなくかけ廻っているという、錦子が溶きかけている絵具皿のとけあった色のような春が、五月まぢかい北の国の、蝶の舞い出る日だった。
 むかしの、出羽《でわ》の郡
次へ
全31ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング