この女のところへであろうが、別荘、別荘、と別荘行きを毎夜|記《しる》しつけてある。もとより、錦嬢とあってることも、その他の女とのこともある。
 これは、稲舟にも入用なことだ。稲舟の田沢錦子は、今日までの記録では、不良少女のようにいわれているけれど、そうした留女のような莫連女《ばくれんおんな》と同棲したからこそ美妙は、錦子のモダンな性格が一層|慕《した》わしかったのかも知れない。
 錦子はまた出京した。そしてまた帰った。どうしても郷里《くに》に凝《じっ》としていられない気持ち――無論美妙斎からの手紙もある。それよりも彼女が出たいのだ。
 錦子がそうしているうちに、郷里で、彼女を恋いしたうものが出来た。それに、東京に来てから、墨田川へ身を投げようとしたような、発作《ほっさ》を起したこともあった。
 錦子に思いを寄せた郷里の男のことは、いなぶねの死後に出た秘書――美しい水茎《みずくき》のあとで、改良半紙に書かれた「鏡花録」によって僅《わずか》の人が知っているだけだ。墨田川投身も、知ってるものはすけない。
 その間に書いたものが、稲舟の文壇|初舞台《デビュー》といってもよい小説「医学終業」だ。
 だが、錦子が煩悶《はんもん》に煩悶した三、四年の間を、美妙と留女との歓楽はつづいて、前川――浅草花川戸の鰻《うなぎ》屋――に行き、亀井戸の藤から本所《ほんじょ》四ツ目の植文《うえぶん》の牡丹《ぼたん》見物としゃれ、万梅《まんばい》――浅草公園|伝法院《でんぼういん》わきの一流|割烹店《かっぽうてん》――で食事をし、歌舞伎座見物の帰りは、銀座で今広《いまひろ》の鶏《とり》をたべるといったふうだった。
 美妙という人が、どんな生活をしていたかということが、稲舟はどうして死んだか、ということと、袷《あわせ》の裏表になるのだが、紙数をとるから、そんな事ばかりは書いていられない。塩田良平氏が美妙の日記を研究発表されるということであるから、やがて世に知れるであろう。
 とはいえ、世の中は悲しくも面白いものだ。その二十六年には、十二階に百美人の写真が出たのだ。あの、市村羽左衛門《いちむらうざえもん》との情話で名高い、新橋の洗い髪のお妻が、髪結銭《かみゆいせん》もなく、仕方なしに、髪をあらったままで写した写真が百美人一等当選だったのを、美妙が六銭の入場料をはらって見て、そしてお留《とめ》のところへ
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