人を慕《した》って身を投げたという湖は、それは先生、田沢という姓名からのお誤りでしょう。田沢いなぶねは、ピンピンしています。此処《ここ》には、近くでは、大岸の池というのがあります。あたくし、真っ白な鵬《おおとり》に乗った、あたくしの水浴《みずあみ》の姿を描きたいのですが、駄目《だめ》ですわ――
 そんなふうにも書いたことがあったようだったが――どうだろう、「蝴蝶」は、もっと前に出ているのだ――
 錦子が、いくら呟《つぶや》いても仕方なかった。彼はとうとう大きな溜息《ためいき》をした。
 錦子は、絵の具皿の中から、白と紅《べに》とが解けあったところを、指のさきに掬《すく》いとると、傍《かたわら》の絵絹《えぎぬ》の上へ、くるりと、女の腰の輪かくを一息に丸く描いて、その次には、上の方へもっていってポチリと点を打った盛《も》り上《あがり》をおいた。
 その反対の方へむけて、腕の曲折を、ふっくらとつくると、それは、思いがけない生々しさで錦子の前へ、若い女が横たわって、羞恥《しゅうち》を含んでいる――
「おお、蝴蝶どの、そなたの姿はわらわによう似ていられる――」
 歌舞伎役者のせりふ[#「せりふ」に傍点]もどきで錦子は、満足した自分の体も、そこへ、その通りの姿態《ポーズ》で肘《ひじ》を枕にして、ころがった。
 ――小説にしようか、絵の修業をしようか――まとまりようのない空想が、あとからあとから湧《わ》いてくる。つい、うっとりとしていると、
「あら、これ、何なの?」
 妹がその絵を、見ているのは好いが、その後から母も来る様子なのに、錦子は慌《あわ》てた。
「その、小説の口絵を、真似《まね》たのよ。」
 そう言って妹はごまかせても、母親の眼は恐《こわ》い。絵の具が乾《かわ》かないで、生々して見えるその尻の恰好《かっこう》は、娘の尻の肉つきそのままであることを母親は、一目で見破るであろう。乳首の出ぬ丸いさしぢちは?
 ――おお、まあ、なんてこの娘は、いやな――
と、呆《あき》れて、眼を反《そ》むけながら角立《つのだ》てるに違いはない。
 いつも、いつも、お前はなんて早熟《ませ》ているのだろうと呟《つぶや》く母親には、見られたくなかったので、錦子は跳《はね》おきると、乳房《おちち》は朝※[#「白/八」、第3水準1−14−51]《あさがお》にしてしまい、腰の丸味は盥《たらい》にしてしまっ
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