た。
 錦子は、まったくませ[#「ませ」に傍点]ていた。売出しの小説作家、山田美妙斎に文通しだした。だが、小説「蝴蝶」の書かれたのは、二、三年前だが、近頃になって、「蝴蝶」の出ていた、『国民の友』の新年附録を、探し出して読みふけり、すっかり魅了され、心酔しつくしてしまった。そして、急に、グイグイ引き寄せられる気持ちになっている。錦子が動かされたのも無理はないほど、美妙斎の「蝴蝶」は、発表された当時も世評が高かったのだ。そのころ仲たがいをしていた尾崎紅葉さえ、宛名《あてな》を、蝴蝶殿へとした公開状で、
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かくすべき雪の肌《はだえ》をあらはしてまことにどうも須磨《すま》の浦風
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と、一首ものしたように、それには挿絵《さしえ》に、渡辺省亭《わたなべせいてい》の日本画の裸体が、類のないことだったので、アッといわせもしたのだった。
 河井酔茗《かわいすいめい》氏の『山田美妙評伝』によると、美妙斎は東京神田柳町に生れ、十歳の時には芝の烏森《からすもり》校から、巴《ともえ》小学校に移り、神童の称があったという。十三歳に府立二中に入学したが、学科はそっちのけで、『太平記』や、『平家物語』をはじめ、江戸時代の草双紙《くさぞうし》の中では馬琴《ばきん》に私淑したとある。芝に生れた尾崎紅葉とは、二中の時おなじ学校で、紅葉が三田英学校から大学予備門にはいると、二級の時に美妙斎が四級にはいり、旧交があたためられて、二人は文学で立とうという決心をあかし合い、しかも、芝からでは遠いというので、美妙斎の家は、学校に近い駿河台《するがだい》に引越して、紅葉も寄宿し、八畳の室《へや》に、二人が机を並べ、そのうちに、おなじ予備門の学生|石橋思案《いしばししあん》も同居し、文壇を風靡《ふうび》した硯友社《けんゆうしゃ》はその三人に、丸岡|九華《きゅうか》氏が加わって創立され、『我楽多文庫《がらくたぶんこ》』第一号が出たのは明治十八年五月二日だと考証されている。
 その石橋思案氏が、後に脳をわずらわれたが、稲舟《いなぶね》女史の話を私にしてくだされたのだった。
 錦子は自分のしたことがおかしくなって、クックッ忍び笑いを洩《も》らしながら、
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ひとり さける のばら あわれ
あかぬ いろを たれか すてん
のばら のばら あかき のばら――

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