いざん》親《まのあた》りここに見る。我が身は釋迦佛にあらず、天台大師《てんだいだいし》にてはなし。然れども晝夜《ちうや》に法華經をよみ、朝暮《てうぼ》に摩訶止觀《まかしくわん》を談ずれば、靈山淨土にも相似たり。天台山にも異ならず。但し有待《うたい》の依身《いしん》なれば、著《き》ざれば風《かぜ》身《み》にしみ、食《くは》ざれば命《いのち》持《も》ちがたし。燈《ともしび》に油をつがず、火に薪を加へざるが如し。命いかでかつぐべきやらん。命《いのち》續《つゞ》きがたく、つぐべき力《ちから》絶《たえ》ては、或は一日乃至五日、既に法華經|讀誦《どくしよう》の音も絶へぬべし。止觀《しくわん》の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]《まど》の前には草しげりなん。かくの如く候に、いかにして思ひ寄らせ給ひぬならん。兎《うさぎ》は經行《きやうぎやう》の者を供養せしかば、天帝哀みをなして、月の中にをかせ給ひぬ。今、天《てん》を仰ぎ見るに月の中に兎あり。されば女人《によにん》の御身として、かかる濁世末代《ぢよくせいまつだい》に、法華經を供養しましませば、梵王《ぼんわう》も天眼《てんがん》を以て御覽じ、帝釋
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