の淨土《じやうど》へゆくためで釋尊《しやくそん》を本意《ほんい》としない。日眼女《にちがんによ》は今生《こんじやう》の祈りのやうだが、教主《けうしゆ》釋尊像《しやくそんざう》を造られたから後生成佛《ごしやうじやうぶつ》であらう。二十九億九萬四千八百三十人の女の中の第一の女人《によにん》であると思はれよ。
念佛まをせば極樂へ――處生苦《しよせいく》を諦《あき》らめて、念願は一日も早く彌陀《みだ》の淨土《じやうど》へ引き取つてもらひたいといふのが念佛衆《ねんぶつしゆ》であるなら、穢土厭離《ゑどおんり》、寂滅爲樂《じやくめつゐらく》の思想は現世否定である。筆者は佛教のことは、その絲口も知らないのだが、そんなふうにこの終りの方の文を解釋すると、前の方の關節《ふし》から起る不治の病も、早く治療すれば命は長いとの教へが適切に響いてくる。
これだけの拔き書きの中からすらも、女性を無知のものとして眼をつぶらせて、何事も耐忍《がまん》せよといふのでなく、よく生きよと教へられてゐるのがたふとい。
ある折の日眼女へは、
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――女人《によにん》は、たとへば藤のごとし、をとこは松の
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