け説きすすめて、芸の人として立たせる第一歩の導きをしたのである。お園は竹本玉之助となり、浅草|猿若町《さるわかちょう》の文楽座に現われることになった。真打ちはその頃の大看板竹本|京枝《きょうし》であった。
明治十八年――世にいう鹿鳴館《ろくめいかん》時代である。上下|挙《こぞ》って西洋心酔となり、何事にも改良熱が充満していた。京枝一座も御多分《ごたぶん》に洩《も》れず、洋装で椅子《いす》にかけ卓《テーブル》にむかって義太夫を語った。そんな変ちきな容《かたち》も流行といえば滑稽《こっけい》には見えず、かえって時流に投じたものか連日連夜の客止めの盛況であった。が、勇みたった玉之助のお園の初目見得《はつめみえ》は、思いがけぬ妬《ねた》みを買った。京枝の弟子の竹子は、かなりの人気者であったが、玉之助が出現して、麒麟児の名を博してからは、月に光りを奪われた糠星《ぬかぼし》のように影が薄くなってしまった。それかあらぬかこの大入りの興行が、突然何の打合せもなしに、狼藉《あわて》ふためいて興行主から中止されてしまった。それは太夫元がふと恐しい密謀を洩れ聞いたので、前途のある玉之助のために、実入《みい
前へ
次へ
全18ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング