つかまったり後押しをしたり、前へ立って駈出していったりする。高座に渇仰の的が姿を現わすと、神妙に静まりかえって、邪魔にならぬほどのよい機《おり》を見て、語り物の乗りにあわせて、下足札《げそくふだ》で拍子をとり、ドウスル、ドウスルと連発する。けれどもそういう連中は割合に淡泊であった。
綾之助の人気は絶頂ともいってよいほどに、彼女が十八、九になると満都に響きわたった。いうまでもなく彼女の人気は平民的で広かった。名高い芸妓などの名は、きいていても青年が眺める花ではないが、綾之助の場合は気楽で、そして語りものを通して一種の親しみをもつことが出来る。それが彼女のために日に日に新らしい信徒をむかえたのでもあったろう。そうなると勢い綾之助には迷惑な殉教徒が出てきた。彼女に熱心のあまり免職される若い巡査もあれば、母親の留守に自殺しようとまでした小心の書生もあった。その他にも切腹しかけた人があって、その人の母親は忰《せがれ》のために綾之助に懇談を申入れたことさえあった。ある三十男は気が変になって、いつも赤いハンケチを持ち、匂袋《においぶくろ》をさげて綾之助の後をついて歩いた。その人はいつも五行本の書風に真似《まね》、文句も浄るり節《ぶし》の手紙を、半年のうちに百数十通おくった。
綾之助の夫石井健太は、まだ三田に在塾のころ、十二歳からの彼女の姿を知っていた。卒業の後《のち》三田|聖坂《ひじりざか》に一戸をかまえて、横浜のある貿易商につとめていた。石井氏が綾之助を愛《いと》しんだのは、恋ではなかったが、綾之助は世心《よごころ》がつくにしたがって、この人にこそと思いそめたのであった。綾之助が十九の春は、彼女にとって忘れかねる、匂いこまやかな霞《かすみ》の夜であったろう。廿六の彼は、初めて彼女の志を入れ、終世を共にする誓《ちかい》を結んだのだが、成恋の二人の間には、惨《いたま》しい失恋の人があって、その人の誠心《まごころ》が綾之助の幸福のために仲人となってくれたのだった。
その人は石井氏の友達の弟であった。綾之助を恋したために落第も二、三度した。机の上の洋燈《ランプ》の笠《かさ》には彼女の名が黒々と書かれ、畳の上に頭をかかえて転《ころ》げ廻る彼は、
「日本中の者が死んで、俺《おれ》と彼女と二人ぎりになればよい」
と呟《つぶ》やきくらしていた。ある夜、石井氏と一緒に綾之助のかかる席へゆくと、綾之助は石井氏を木戸口に待ち迎えていて、氏の好みを聞いてその夜の語りものを改ためたりした。それを見て綾之助の心を悟った彼は絶望のあまり、冬の夜を一夜、品川海岸をさ迷っていたこともあった。その死にもしかねぬ彼の恋が綾之助の偽《にせ》手紙をつくって石井氏の心を試《ため》した。
それが二人を結びつける強い綱になったのだった。苦悶《くもん》は彼をたかめて、綾之助を失意のものにさせまいと、優しい思いやりまでして、彼は石井氏の両親が選んだ娘のあったのを、破約にさせるように骨を折った。そんなことがちらちらと噂《うわさ》に立つと、綾之助の高座へ悪戯《いたずら》をするものが出来た。石井氏の名を知って害《あや》めようとする者などもあった。養母の鶴勝を煽《おだ》てるものもあった。石井氏は後日の健全な家庭をつくるためにと、綾之助を慰めておいて、雄々《おお》しくも志望を米国へ伸《のば》しに渡った。綾之助はその留守をどうして暮したであろう、彼女は派手な芸人の上に、日の出の人気の花形である。あらぬ噂も立つ、またその上に大阪役者の中村|芝雀《しばじゃく》(後に雀右衛門)を従兄妹《いとこ》にもっていたので、東上のおりには、引幕を遣《おく》ったり見連《けんれん》を催したりする、彼女の生活の色彩は、いよいよ華やかであった。けれどそれは表向きだけで、彼女は健太氏の帰朝を一日も長しと待ちわびていた。彼女は未来の夫のために便船ごとに出す手紙を、忙しい間にかかさずに書いた。笑われまいために学びもした、裁縫などもならった。昔日《せきじつ》の「男おんな」はすっかり細君|気質《かたぎ》になっていた。
五年ぶりに成功して帰朝した石井氏を、廿三歳の豊麗な彼女が迎えた。養母の鶴勝はその悦びを共にすることを得ず、もはや鬼籍《きせき》にはいっていた。二人の心は一日も早くと焦燥《あせ》りはしたが、席亭《よせ》組合の懇願もだしがたく、綾之助の引退は一ヶ年の後に延引《のば》された。全くその頃は綾之助が出ると、投げ下足《げそく》というほど、席亭《よせ》の手が廻りかねる大入|繁昌《はんじょう》だった。石井氏が帰ってきてから何よりおかしがられたのは、(取消し屋の綾之助)といわれるほど克明に、制限なく新聞へ載せられる誤聞を、一々取消させないではおかなかったことだ。
人世の嵐《あらし》――この二人の上にも、ふと曇った影がさしたことも
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