あるにはあったが、それは世間の面白がりが、待ちかまえていた二人の心の溝《みぞ》ではなく、愛の結晶の長男を早世させたことと、明治卅三年頃の相場の不況に失敗し、二女をかかえて洗い晒《ざら》しの浴衣《ゆかた》一枚になったことだった。その当時こそ多少陰惨の影はもって来たものの、かえって二人の心はぴったりと合い、綾之助貞淑の床しい語り草とも残された。卅七、八年の日露戦争ごろには、芽を出して、家庭は豊かになった。綾之助はこのおりこそと木戸銭がわりに手拭《てぬぐい》二筋ずつ客に持ってきてもらう演芸会を開き、二日間に二万本を集め得て恤兵部《じゅっぺいぶ》におくった。
時の歩みの早さ、家庭にかくれた綾之助に十年の月日は経った。四十二年の二月に女義界の紛擾《ふんじよう》の仲裁にたった羽目から、睦《むつみ》、正義の両派によらず独立して芸界に再来することになった。時の進むことの早さ、綾之助の堂摺連《どうするれん》はみんな紳士中産階級以上の人になり、時世の潮流もおしなべて向上した。再起の綾之助の語り口も、以前の浮気な人気ではなく、完《まった》く価値あるものとして価値《ねうち》附けられ、真に噛《か》みわけた人生の味を、期待された。
[#地から2字上げ]――大正七年四月――
底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月発行
初出:「婦人画報」
1918(大正7)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
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