竹本綾之助
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)市井《しせい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当時|人形操《あやつ》り

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぼんち[#「ぼんち」に傍点]
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 泰平三百年の徳川幕府の時代ほど、義理人情というものを道徳の第一においたことはない。忠の一字をおいては何事にも義理で処決した。武家にあっては武士道の義理、市井《しせい》の人には世間の義理である。義理のためには親子の間の愛情も、恋人同士の迸《ほとば》しるような愛の奔流も抑圧してきた時代である。その人情の極致と破綻《はたん》と、抑《おさ》えつけられた胸の炎と、機微な、人間の道の錯誤を語りだしたのが義太夫節《ぎだゆうぶし》で、義太夫節は徳川時代でなければ、産れないもので他の時には出来ないものだ。というのは、武士道からきた道徳と、儒教からきた道徳と、東洋の宗教が教えた輪廻《りんね》説の諦《あきら》めとが、一つの纏《まと》められた思想が、その語りものの経《たて》の太い線になっている。その上に、義太夫節の生れた徳川氏の政府の最初に近い年代は、一面に長らく続いた戦国の殺伐で豪放な影がありながら、一面には世の中が何時《いつ》も春の花の咲いているような、黄金が途上《みちばた》にもざくざく零《こぼ》れていれば、掘井戸のなかからも湧《わ》いて出るといったような、豪華な放縦《ほうじゅう》な、人心の頽廃《たいはい》しかけた影も射《さ》しそめていた。その上に人斬《ひとき》り刀《がたな》を横たえて武士は市民の上に立ち、金はあっても町人は、おなじ大空の月さえ遠慮して見なくてはならないほど頭があがらなかった。その時勢に、新江戸の土くさい田舎《いなか》もののずぶとさと反撥力《はんぱつりょく》をもった、新開の土地などでは見られない現象を、古い伝統をもつ大都会、浪花《なにわ》の大阪の土地に見たのは当然の事であったろう。
 経済都市大阪のぼんち[#「ぼんち」に傍点]は、酒と女の巷《ちまた》へ、やりどころのない我儘《わがまま》と、頭の廻《めぐ》らしようのない鬱憤《うっぷん》を、放埒《ほうらつ》な心に育てて派手な場処へと、豪華を競いにいったが、家にかえれば道徳の人情責めと、いわゆる世間の義理とが、小むずかしく、光った頭のちょん髷《まげ》と、背中を丸くして目を摺《す》り赤めた老婆の涙が代表して待構えていた。そしてぼんち[#「ぼんち」に傍点]は強い刺戟《しげき》に爛《ただ》れた魂を、柔かい女の胸の中に、墓場に探《たず》ねあてて死んでいった。
 そうした義理人情の葛藤《かっとう》と、武家の義理立ての悲劇を語りものにしたのが義太夫である。であるから、節《ふし》であり、絃奏をもったものでありながら、義太夫は他の歌とはちがって唄《うた》うものではない、語りものである。現われる人物の個性を、苦悩を語り訴えるのである。
 竹本義太夫がその浄瑠璃節《じょうるりぶし》の創造主であるゆえに義太夫と唱え世に広まった。またその当時|人形操《あやつ》りには辰松八郎兵衛《たつまつはちろべえ》、吉田三郎兵衛などが盛名を博し、不世出の大文豪、我国の沙翁《さおう》と呼ばれる近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》が、作者として名作を惜気《おしげ》もなく与え、義太夫に語らせ、人形操《あやつ》りの舞台にかけさせた。そして近松翁が取りあつかった取材は、その多くを当時の市井の出来ごとから受入れている。そうして義太夫節は大阪に生れ、大阪に成長し、語る人も阪地《はんち》の生れを本場とし、修業もその土地を本磨きとするのである。
 わが竹本綾之助《たけもとあやのすけ》、その女《ひと》もその約束をもって、しかも天才|麒麟児《きりんじ》として、その上に美貌《びぼう》をもって生れた。私は綾之助を幸福者だと思う。何故《なぜ》そういうかといえば、綾之助の現今は三人の娘の母親として、夫には長い年月の間も、最初にかわらぬ恋人として、家庭の中軸《なかじく》となっている。三人の娘は、さだ子、いと子、ふじ子とよんで、母の美しさと父の秀《ひい》でたところをとって生れた。姉は高女をこの三月に卒業し、中《なか》のいと子は実科女学校に学ばせている。綾之助は芸にも自家《じか》の見《けん》を立てているように、子女の教育の上にも一家の見識を持っている。娘たちの長所短所を見分けて、学ぶところを選ませている。家庭では、女中のする仕事をわけてさせ、娘たちを一人前の婦人とすることに腐心している。それは彼女が、彼女のあの名高かった盛時の芸名を、美しい娘の三人をも持ちながら、どの子にも伝えようとしないのにも、操持《そうじ》の高いことが窺《うかが》われる。彼女にはそうした満足と誇りがあり、そして家
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