庭は、彼女の収入を煩らわさないでも、子供を教育していかれるだけの夫をもっている。それは女芸人とよばれる仲間ではめずらしいことなのだ。今年《ことし》――大正七年に彼女は四十四歳になるが、この上の平和と幸福とは重なろうとも、彼女の身辺に冷たい風の逼《せま》ろうはずはない。私が彼女は幸福だといっても、錯《あや》まった事ではなかろうと思う。
彼女には上なき誇りがも一つある。それは童貞同士の恋人で、初恋の夫妻であるという、これも芸の人にはめずらしいことといわなければならない。三人の母の彼女の至上の宝は夫であり、彼女の夫の無上の満足は妻としての彼女を持つことだが、そのためには幾人かの犠牲者に、同情するひまも、一滴の涙もこぼしてやる余裕もなかった。俊敏な綾之助は、盛名を保つに聡《さと》かったであろうが、綾之助を情にもろくまけない女に教育したのは、七歳の年から無心で語っていた義太夫節が、知らず知らずの間に教えた強いものが、綾之助の心の底に生れつきのように根をはっていたのでもあろうと考える。
大阪南区畳屋町に錺屋《かざりや》の源兵衛《げんべえ》という人があった。その人の父親は、石山新蔵という、大阪の江戸堀|蔵屋敷詰《くらやしきづめ》の武家であったが、源兵衛は持って生れた気負い肌《はだ》が、侍をやめて、維新の新政を幸いに気軽く職人になってしまったのだった。大酒家《たいしゅか》ではあり、居候《いそうろう》は先方がいるなり次第に置きほうだいであったその人の、綾之助は三女に生れ、本名はお園さんである。
源兵衛の妹のお勝さんという伯母《おば》さんが、お園を貰《もら》って育て、後年の綾之助に仕立て、自分は三味線ひきになって鶴勝《つるかつ》と名乗り、綾之助の今日ある基礎をつくったのであった。孀《やもめ》のお勝も源兵衛の妹だけあって気性の勝った人で、お園が男のように竹馬に乗ったりして遊ぶのを叱言《こごと》もいわずに、五|分《ぶ》刈の男姿にしておいた。町内の者がお園のことを男おんなと呼ぶのを、知っていても知らぬ顔をしていた。
新町の畳屋の近所に男義太夫の新助というのがあった。お園が七ツのおりにその新助が「由良《ゆら》の港の山別れ」を教えた。ある折、一段語りおえて、親たちを嬉しがらせたあとで、
「御褒美《ごほうび》のかわりにお酒が飲みたい」
といって、七歳のおそのやんが生《き》一本の灘《なだ》の銘酒を五合ばかり飲んで、親たちや養母を驚ろかせたりした。
新町のある茶屋に、素人《しろうと》義太夫の稽古《けいこ》会があった。素人といっても、咽喉《のど》からして義太夫そのものに合った音声を持つ土地ではあり、ことに土地で生れた芸ではあり、父祖代々、耳に親しんできた馴染《なじみ》の深い、鍛錬のある人たちのあつまりのこととて、到底よその土地の旦那芸とは一つにならない人たちのあつまりであると同時に、こればかりは、何処《どこ》でもかわらない自慢|天狗《てんぐ》の旦那芸の集りであった。後見役《こうけんやく》には師匠筋の太夫、三味線|弾《ひ》きが揃《そろ》って、御簾《みす》が上るたびに後幕《うしろまく》が代る、見台《けんだい》には金紋が輝く、湯呑《ゆのみ》が取りかわる。着附《きつけ》にも肩衣《かたぎぬ》にも贅《ぜい》を尽して、一段ごとに喝采《かっさい》を催促した。其処《そこ》へ平日着《ふだんぎ》のまま飛込んだのが、町内の腕白者《わんぱくもの》男おんなで通るお園であった。自分も一段語りたいといった。人々は面白がって子供にからかって、
「そんなに仲間入りがしたければ、三味線弾きをつれておいで」
といった。お園は早速|四辺《あたり》を見廻して、一人の師匠を指さした。その人はにこにこして「鈴が森」を弾いてくれたが、それは誰あろう当時の名人|竹本住太夫《たけもとすみたゆう》であった。住太夫はお園の胆気《たんき》と、語り口の奥床《おくゆか》しいのに打込んで、これこそ我が相続をさせる者が見つかったと悦《よろこ》んだ。もとより男の子だとばかり信じてしまったので、何でも養子に貰《もら》いたいとお勝を困らせたが、女だと分ると非常に失望して悔《くや》しがった。けれどもそれからは心を入れて教え導びいた。それも七歳《ななつ》のこと。
お園は明治八年の六月の生れで、初夏の、溌剌《はつらつ》とした生れだちである。養母のお勝も気が勝っている、その上に、女中がわりに人形操《あやつ》りの山本三の助というものの母親がいた。その女が東京へ出ることになったおり、お園親子にも上京を勧めた。それが綾之助となる動機――振りだしで、お園が十一歳のおりのことである。日本橋久松町に住む近親をたよってゆくと、その人が知己《しりあい》を招いてお園の浄るりを聞かせた。それが東京での封切りであった。その折、市村座の座主がお園に目をつ
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