くのは悪いと思いながら、楠緒女史が生《いき》て見えますので、ほんの影だけでもうつさせて頂《いただ》きたいと、私は大胆にもその事まで此処へ取りいれました。
 夏目先生が千駄木《せんだぎ》にお住居《すまい》であったころ、ある日夕立の降るなかを、鉄御納戸《てつおなんど》の八間《はちけん》の深張《ふかはり》の傘《かさ》をさして、人通りのない、土の上のものは洗いながされたような小路を、ぼんやりと歩いていらっしゃると、日蔭町というところの寄席《よせ》の前で一台の幌車《ほろぐるま》にお出合なされました。セルロイドの窓が出来ない時分であったので、先生は遠目にも乗っているのは女だという事にお気がおつきでした。車の上の人は無心にその白い顔を先生に見せているのが、先生の眼に大変美しく映ったので、凝《じっ》と見惚《みと》れていらっしゃるうちに、芸者だろうというようなお心が働きかけたそうでした。俥《くるま》が一間ばかりの前へ来たときに、俥の上の美しい人が鄭寧《ていねい》な会釈《えしゃく》をして通りすぎたので、楠緒さんだったということに気がおつきなされたのでした。
 その次に先生が楠緒さんにお逢《あ》いなされたと
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