そうな気質は、一言《ひとこと》二言《ふたこと》の言葉のなかにもほのめいて見られる。この人よりは顔も普通で、出世もさほどでない女さえ、我第一の器量人といったふうに振舞うのが多いのに、大橋家の家憲がそうしたのか、彼女の生れたちがそうなのか、立入って知らないが奥床《おくゆか》しいと思った。
近代的なひらめきはないが、そうしたところのないのが、しっとりとした落付きのある、大家《たいけ》の夫人としての品を保たせていた。わたしはぴったりとその女《ひと》の胸に触れたことがないので、情の人か、理智の人かそれすら知らないが、悧巧《りこう》な人であることは言わずもがなであろう。
わたしの思出は、また紅葉館の、あの広々とした二階の一室へともどる――
台広《だいびろ》の駒《こま》の、上方唄《かみがたうた》の三味線の音がゆるく響くと、涙がくゆってくるのであった。わたしの妙に思いやりのある心は、そうしたおりに意地悪く、この幸運な女《ひと》と、向いあって坐っている人の上に廻ってゆくのであった。聞きしみていた三味線の、絃《いと》の顫えから、雫《しずく》してくるものが、妙にわたしの胸を一ぱいにさせるのであった。
長唄《ながうた》でも、富本《とみもと》でも、清元《きよもと》でも、常磐津《ときわず》でも、おしかさんは決して何処へでても負けはとらない腕|利《き》きで、大柄な、年の加減ででっぷりして来たが、若い時分にはさぞと思われる立派な、派手な顔立ちで、京生れで言葉は優しいが、色はたいして白くはない。眉毛《まゆげ》のくっきりしている髪の毛の実に好い女だった。
紅葉館が明治十幾年かに創業のおりは、当今の女優気分と、カフェーの給仕《きゅうじ》気分と、いにしえの太夫の気分とを集めたものへ、芸妓の塩梅《あんばい》と、奥女中のとりなしとを加減して、そのころの紳士の慰楽の園としようとした目論見《もくろみ》で、お振袖《ふりそで》を着せて舞わせもし、またすっきりと水ぎわの立った粋《いき》な酌人も交ぜた。おさないものは稚児髷《ちごまげ》の小性《こしょう》ぶりにしてしたてた。
家禄を返還した士族――旗本上りも、諸藩の家人《けにん》も馴《な》れない時世に口をぬらしかね、残してきたものも売りはらいきってしまった時分のこと、そうした人たちの娘が、多く集められ、京都からも多く連れてきた。むきむきの諸芸をしこんで出したの
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