というと身近く使われていたらしい女中が「先生のときに一つつかってしまって、一つしかないのだけれど」と、まごまごしていると、室のなかから水をなみなみと入れた洗面器をもちだして来てあけにいった。
(あの人の死骸《しがい》はこの杉戸一枚の向うにある)
 引締った心持ちで佇《たたず》んでいると、頭の底が冷たくなって血が下へばかりゆくような気がした。何やら面倒な問題があったと噂《うわさ》された楠山《くすやま》氏が側へ来たが、
「死ななくってもよかったろうと思うのですが……」といって、「これから郊外へかえるのは大変ですね」と話題をそらした。
 洗面器のことで呟《つぶ》やいていた年増《としま》の女中は杉戸の外にしゃがんでいたが、秋田さんが気附いたように、
「何か棺のなかへ入れてやるものでもないですか? 好きなものであったとか、大事にしていたものであったとか……忘れてしまうといけないから」
というのに、ろくに考えもせずに、
「お浴衣《ゆかた》が着せてありますから、あの上へ経《きょう》かたびらを着せればよいでございましょう。時計だの指輪だのというものは、かえってとってあげたほうがよろしいでしょうよ。ああ
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