たならその素振《そぶ》りを見逃がさなかったであろう。何か異状のあることと気をつけていたに違いない。彼女は写真を撮るまえに泣いたばかりでなく、ひとり淋しく廊下に佇《たたず》んで床を見詰めていたばかりでなく、その日は口数も多くきかなかった。夕食に楽屋一同へ天丼《てんどん》の使いものがあったが、須磨子の好きな物なのにほしくないからとて手をつけなかった。帰宅してからも食事をとらなかった。夜更けてかえると冷《ひえ》るので牛肉を半斤ばかり煮て食べるのが仕来《しきた》りになっていた。それさえ口にしなかった。十二時すぎになると、抱月氏を祭った仏壇のまえでひそひそと泣いていたが、それは抱月氏の永眠後毎日のことで、遺書は四時ごろに認《した》ためられた。
最後の日の朝、洗面所を見詰めて物思いにふけっていたというが、生前抱月氏は手細工《てざいく》の好きな人で、一、二枚の板ぎれをもてば何かしら大工仕事をはじめて得意でいた。洗面台もそうしたお得意の細工であったのである。毎朝々々顔を洗うたびに凝《じっ》と見詰めているが、そのおりも何時《いつ》までも何時までも立ったままなので風邪《かぜ》をひかせてはいけないと、女中
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