ったであろう。抱月氏の逝去《せいきょ》された翌日、須磨子は明治座の「緑の朝」の狂女になっていて、舞台で慟哭《どうこく》したときの写真も凄美《せいび》だったが、死の幾時間かまえにこんなに落附いた静美をあらわしているのは、勇者でなければ出来得ない。私は須磨子を生活の勇者だとおもう。
――誰れの手からも離れてゆくこの女の行途《ゆくて》を祝福して盛んにしてやりたいから、という旧芸術座脚本部から頼まれた須磨子のための連中は、七草の日に催されるはずであった。けれどもう見ることは出来ない。芝居の大入りつづきのうちに一座の女王《クイン》が心静かに縊《くび》れて死んでしまうということは、誰れにも予想されない思いがけない出来ごとであって、幾年の後、幾百年かの後には美しい美しい伝奇として語りつたえられることであろう。
その最後の夜、須磨子としては珍らしく白《せりふ》を取り違えたり、忘れてしまったりして、対手《あいて》をまごつかせたというが、そんなことは今まで決してない事であった。舌がもつれて言いにくい様子を不思議がったものもあった。カルメンの扮装をしたままで廊下にこごみがちに佇《たたず》んでいたというのは、凝《じっ》としては部屋にいられなかったのでもあったろう。そしてホセに刺殺されるところは真にせまっていたが、なんとなく悦んで殺されるようで、役柄とは違っていたという。
内部のある人のいうには、一体に島村先生に別れてからは、芝居のいき[#「いき」に傍点]が弱くなって、どうもいままでの役柄にあわなくなっていた。ことに今度のカルメンなどは、彼女に最も適した漂泊女《ジプシイ》の女であり、鼻っぱりの大層強い性格で、適役《はまりやく》でなければならないのに、どうもいき[#「いき」に傍点]が弱かったと言った。
彼女は死ぬ幾日かまえに、
「あなたはもっと真面目《まじめ》に人生を考えなければいけませんよ」
といわれたときに、
「今にほんとに真面目になって見せますよ」
と答えた。もうその時分から死ぬことについて考えていたのかもしれなかった。カルメンの唄《うた》う調子が低くって音楽にあわなかったというが、その心地をぽっちりも洩らすような友人のなかったのが哀れでならない。
後からきけば種々《いろいろ》と、平常《ふだん》に変ったことが多くあったのである。抱月氏でなくとも、彼女を愛する肉親か、女友達があったならその素振《そぶ》りを見逃がさなかったであろう。何か異状のあることと気をつけていたに違いない。彼女は写真を撮るまえに泣いたばかりでなく、ひとり淋しく廊下に佇《たたず》んで床を見詰めていたばかりでなく、その日は口数も多くきかなかった。夕食に楽屋一同へ天丼《てんどん》の使いものがあったが、須磨子の好きな物なのにほしくないからとて手をつけなかった。帰宅してからも食事をとらなかった。夜更けてかえると冷《ひえ》るので牛肉を半斤ばかり煮て食べるのが仕来《しきた》りになっていた。それさえ口にしなかった。十二時すぎになると、抱月氏を祭った仏壇のまえでひそひそと泣いていたが、それは抱月氏の永眠後毎日のことで、遺書は四時ごろに認《した》ためられた。
最後の日の朝、洗面所を見詰めて物思いにふけっていたというが、生前抱月氏は手細工《てざいく》の好きな人で、一、二枚の板ぎれをもてば何かしら大工仕事をはじめて得意でいた。洗面台もそうしたお得意の細工であったのである。毎朝々々顔を洗うたびに凝《じっ》と見詰めているが、そのおりも何時《いつ》までも何時までも立ったままなので風邪《かぜ》をひかせてはいけないと、女中が気をつけに側へいったのに驚いて、歯を磨きだした。そしてその翌朝は、そこのとなりの、新らしく建増《たてま》した物置きへ椅子や卓《テーブル》を運んでいったのであった。つい隣りの台所では下女《げじょ》が焚《た》きつけはじめていたということである。坪内《つぼうち》先生と、伊原青々園《いはらせいせいえん》氏と、親類二名へあてた遺書四通を書きおわったのは暁近くであったであろう。階下の事務室に寝ているものを起して六時になったら名|宛《あて》のところへ持ってゆけと言附けたあとで、彼女は恩師であり恋人であった故人のあとを追う終焉《しゅうえん》の旅立ちの仕度にかかった。
彼女は美しく化粧した。彼女は大島の晴着に着代え、紋附きの羽織をかさね、水色|繻珍《しゅちん》の丸帯をしめ、時計もかけ、指輪も穿《は》めて、すっかり外出姿《そとですがた》になって最後の場へ立った。緋の絹縮《きぬちぢみ》の腰|紐《ひも》はなめらかに、するすると、すぐと結ばれるのを彼女はよく知っていたものと見える。
あの人は変っている、お連合《つれあい》と口論したら、飯櫃《めしびつ》を投《ほう》りだして飯粒だらけになっていたって――家が
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