というと身近く使われていたらしい女中が「先生のときに一つつかってしまって、一つしかないのだけれど」と、まごまごしていると、室のなかから水をなみなみと入れた洗面器をもちだして来てあけにいった。
(あの人の死骸《しがい》はこの杉戸一枚の向うにある)
 引締った心持ちで佇《たたず》んでいると、頭の底が冷たくなって血が下へばかりゆくような気がした。何やら面倒な問題があったと噂《うわさ》された楠山《くすやま》氏が側へ来たが、
「死ななくってもよかったろうと思うのですが……」といって、「これから郊外へかえるのは大変ですね」と話題をそらした。
 洗面器のことで呟《つぶ》やいていた年増《としま》の女中は杉戸の外にしゃがんでいたが、秋田さんが気附いたように、
「何か棺のなかへ入れてやるものでもないですか? 好きなものであったとか、大事にしていたものであったとか……忘れてしまうといけないから」
というのに、ろくに考えもせずに、
「お浴衣《ゆかた》が着せてありますから、あの上へ経《きょう》かたびらを着せればよいでございましょう。時計だの指輪だのというものは、かえってとってあげたほうがよろしいでしょうよ。ああしたお方でしたから。島村先生の時にはお好きだからって、あの方が林檎《りんご》とバナナをお入れになりました。ですから蜜柑《みかん》のすこしも入れてあげたらよろしゅうござりましょう」
と無ぞうさな事を言っていた。
 素朴なのは彼女の平常であったかも知れないが、名を残した一代の女優の、しかも若く、美しく、噂の高かったロマンスの主であり、恋愛に生きた日を慕って、逝《い》った人を葬むるのに、そんな無作法なことってないと腹立《はらだた》しかった。こんな女に相談をかけるとはと、秋田氏をさえ怨《うら》めしく思った。死んだ女は詩のない人であったが、その最後は美しく化粧《けわい》して去《い》ったというではないか、私は彼女に、第一の晴着《はれぎ》が着せたかった。思出のがあるならば婚礼の夜の衣裳といったようなものを、そしてあるかぎりの花で彼女の柩《ひつぎ》のすきまは埋めたかった。諸方から来る花環は前へ飾るよりも、崩《くず》して彼女の亡骸《なきがら》に振りかけた方がよいに、とも思った。
(親身でもないに立入ったことは言われない)
 そう思ったときに、生々としていて、なんの苦悶《くもん》のあともとめない死顔が目に見えるようであった。暗い寒い静かな明方《あけがた》に、誰れも気づかぬとき、床の間の寒牡丹《かんぼたん》が崩れ散ったような彼女の死の瞬間が想像され、死顔を見るに堪えなくなって暇《いとま》を告げた。
 秋田さんは玄関まで連立って来ながら、
「あすこへね、あすこから卓《テーブル》と椅子《いす》を持っていって、赤い紐《ひも》で縊《くび》れたのです。ちゃんと椅子を蹴《け》ったのですね息をのんだと見えて口を閉じていたし、それは綺麗な珍らしい死方だそうです」
 こういうおりに送り出されるのは忌むのが風習ではあるけれど、話しながら送りだされてしまった。
 私は道を歩きながら彼女に逢ったおりの印象を思いうかべていた。舞台外では幾度と逢ったのではないが、いつでもあの人はキョトンとした鳩《はと》のような目附きで私の顔を眺めていた。文芸協会の生徒の時分もそうであったし、芸術座の女王《クイン》、女優界の第一人者となってからもそうであった。貞奴《さだやっこ》が引退興行のときおなじように招かれて落ち合ったおり、野暮《やぼ》なおつくりではあるが立派な衣裳になった彼女は飾りけのないよい夫人《おくさん》であった。田村俊子《たむらとしこ》さんが、
「何故《なぜ》挨拶《あいさつ》しないのよ。だまって顔ばかり見ていてさ。一体知っているの知らないの」
 こう言っても、やっぱり丸い眼をして――舞台で見るのとはまるで違う、生彩のない無邪気な眼をむけて、だまって、度外《どはず》れた時分にちょいと首を傾《かし》げて挨拶とお詫《わび》とをかねたこっくり[#「こっくり」に傍点]をした。それが私には大変よい感じを与えたのであった。可愛いところのある女だと思った。

 自分のことと須磨子の事件とがひとつになって、新聞を見ていても目の裏が火のように熱く痛くなった。彼女が臨終七時間前に撮《うつ》したという「カルメン」の写真は、彼女の扮装《ふんそう》のうちでもうつくしい方であるが、心なしか見る目に寂しげな影が濃く出ている。どうした事かそのおりばかりは、写真を撮《と》るのを嫌がって泣いたのを、例の我儘《わがまま》だとばかり思って、誰れも死ぬ覚悟をしている人だとは知らないので、「そんな事をいわないで」といって無理に撮らせてもらったのだというが、死の前に写した、珍らしい形見の写真になってしまった。きっと彼女の目のなかは、焼けるように痛か
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