お堀ばたの土手下で、土手へあがってはいけないという制札があるのに、わざと巡査のくる時分に駈《かけ》上ったりするって。ということを、まだ文芸協会の生徒の時分に聞いた。そのうち舞踊劇の試演があって、坪内先生のいらっしゃる楽屋にお邪魔していると、ドンドンドンという音がして近くで大きな声がした。何だろうと思っていると、
「正子《まさこ》さんの白《せりふ》のおさらいだ」
と説明するように傍の人が言ったが、四辺《あたり》にかまわぬ大きな声は、悪口をいえば瘋癲《ふうてん》病院へでもいったように吃驚《びっくり》させられた。今度の騒ぎで諸氏の感想を種々聴くことが出来たが、同期に女優になり、いまは「近代劇協会」を主宰している良人《おっと》の上山草人《かみやまそうじん》氏と御夫婦しておなじ協会の生徒であった山川浦路《やまかわうらじ》氏の談話によると、生徒時代から須磨子は努力の化身のようで、手当り次第に台本を持ってきて大きな声で白《せりふ》をいったり朗読したりし、対手《あいて》があろうがなかろうがとんちゃくなく、すこしの暇もなく踊ったりして、火鉢にあたっている男生の羽織の紐をひっぱっては舞台へ引出して対手をさせる。その人が労《つか》れてしまうとまた他の人を引っぱりだしてやらせる。皆が嫌がると終《しま》いには一人で、オフィリヤでもハムレットでも墓掘りでもやってしまう。自分の役でない白でも狂言全体のを覚えこむという狂的な熱心さであったということである。
生徒時代には身なりにとんちゃくなく、高等女学校や早稲田《わせだ》大学出の人たちの間へはさまり、新時代の高級女優となって売出そうという人が、前垂《まえだ》れがけの下から八百屋で買って来た牛蒡《ごぼう》と人参《にんじん》を出してテーブルの上へのせておいたまま「これはお菜《かず》です」とその野菜をいじりながら雑誌を一生懸命に読出したということや、他の生徒たちと一所に帰る道で煮豆やへ寄って、僅《わず》かばかりの買ものを竹の皮に包ませ前掛けの下にかくし「これで明日のお菜もある」といった無ぞうさや、納豆《なっとう》にお醤油《しょうゆ》をかけないで食べると声がよくなるといわれると、毎日毎日そればかりを食べて、二階借りをしていたので台所がわりにしていた物干しには、納豆のからの苞苴《つと》が稲村《いなむら》のようなかたちにつみあげられ、やがてそれが焚附《たきつ》けにもちいられたということや、卒業間近くなって朝から夜まで通して練習のあったおりなど、みんながそれぞれのお弁当をとるのに、袂《たもと》のなかから煙の出る鯛焼《たいやき》を出してさっさと食べてしまうと、勝手にさきへ一人で稽古《けいこ》をはじめたということなど、そうもあったろうとほほえまれる逸話をいろいろと聞いている。
「須磨子は地方へゆくと、座員のお弁当まで受負うのですとさ。一本十三銭五厘だって。だって、たしかな人がいうのですもの嘘ではない。それでね大奮発《おおふんぱつ》で手製なのですって、お手伝いをさせられるものは大弱りだわ。みんながよく食べるかって? ううん、不味《まず》くっていやだというものが多いから大儲《おおもう》かりなの。だって自弁は御勝手で、つまり芸術座から賄費《まかない》用が出るのだから。手っとりばやく芸術座の儲けの幾分が、女優須磨子の利益の方へ加わるだけの事だから。そしてね、おかずは何だと思うの、毎日毎日油揚げの煮附け」
いまは外国へいった友達がはなした。私たちは「まさか!」といって笑っていたが、ある夜は、芸術倶楽部の居間を訪れての帰りがけに立寄った人が、
「大変先生も機嫌がよかった。いま一杯やるところだからと進められたが、お須磨さんが土瓶《どびん》をもっているからなんだと思ったら、土瓶でお燗《かん》をして献酬《けんしゅう》しているところだった」
細《こま》かしいことには無頓着《むとんちゃく》な須磨子の話しをした。極《ご》く最近、地方興行が当って、しかもこの次からは松竹の手で興行をするようになるので、万事そうした方の心配がなくなるというような、芸術座の前途が明るくなった話しのつづきに、
「こんどの地方興行が当ったので、島村さんもいくらか楽になったので、座の会計の都合が悪かったときに、電話を担保にしてお須磨さんから借りた金を、返そうといったらば、彼女がいうのには、あの時分より電話の価《ね》があがっているから、あれだけでは嫌だというので、それでは止めようとそのままになってしまった」
と言った。それこそ私は根もないことだろうと打ち消すと、
「ほんとなのですよ。先生は貧乏――つまり芸術座は貧乏でも、お須磨さんは財産をつくっているのです。かなりあるのです」
といいはった。奮闘克己という文字に当嵌《あてはま》った彼女だ。
二
傲慢《ごうま
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