ん》なほど一直線であった彼女の熱情――あの人の生き力は、前にあるものを押破って、バリバリとやってゆく、冷静な学者の魂に生々《なまなま》しい熱い血潮をそそぎかけ、冷凍《こお》っていた五臓に若々しい血を湧返《わきか》えらせ、絶《たえ》ず傍《かたわ》らから烈しい火を燃しつけた。彼女は掌握《つかみ》しめてしまわなければ安心することの出来ない人であった。そうするには見得《みえ》も嘲笑《ちょうしょう》も意にしなかった。そのためには抱月氏がどんな困難な立場であろうとかまわなかった。彼女の性質は燃えさかる火である、むかっ気である。彼女に逢ったときにうけた顔の印象には、すこしの複雑さも深みも見られなかった。彼女は文芸協会演芸研究所の生徒であった時分に、山川浦路さんに英文の書物のくちゃくちゃになったのを見せて、
「英語を教わって癇癪《かんしゃく》がおこったから、本を投げつけちゃった。出来ないから教えてもらうのに、良人がいくらおしえても解らないなんて言うから」
といったそうだ。抱月氏と同棲《どうせい》してからも激しい争闘がおりおりあったとかいうことである。向いあっているときはきっと何か言いあいになる。頬《ほ》っぺたへ平打《ひらう》ちがゆくと負けていないで手をあげる。そうしたことはちょっと聴くと仲が悪いようにきこえるが、喧嘩《けんか》もしないような家庭が平和で幸福があるとばかりはいえない。激しい争闘のあとに、理解と、熱い抱擁とが待っているともいえる。
「奥さんがもすこしなんだったら――坪内先生の奥様のように優しく、なにかのことを気をつけてくださるようだといいのだけれど……」
 こういった須磨子は自分勝手だったかも知れない。そうはいっても須磨子自身も、先方の思いやりなどはちっとも出来ないたちで、噂だけか、それとも誠のことか、ある時抱月氏の令嬢たちに手紙をやって、これから貴女《あなた》がたは私をお母さんと思わなければなるまい、といったとか、自信も勇気も、過ぎると野猪《いのしし》のむこうみずになるが、彼女が脱線したのには一本気な無邪気さもある。かつて私はあの人の芸が、精力的《エネルギッシュ》で力強いのを畏敬《いけい》したが、粗野なのに困るという気持ちもした。感情も荒っぽいので、どうしてもあの人とならんで、も一人、繊細な感情の持主であり、音楽的波動で人にせまる、詩的《ポエティカル》な女優がなくてはならないと思っていた。陶冶《とうや》されないあの駄々《だだ》っ子《こ》は、あの我儘が近代人だといえばそうとも言われようが、気高い姿体と、ロマンチックな風致をよろこぶ女にも、近代人の特色を持った女がないとは言われない。
 ひたぶるに突進んでいって、突きあたる壁のあったのをはじめて発見したのだ。彼女が勢力にまかせて押退けたおりには、奥深くへと自然に開けていった壁が――何の手ごたえもない幕のように見えた壁が、巌壁《がんぺき》のように巍然《ぎぜん》と聳《そび》えたっていて、弾《はじ》き飛ばした。彼女ははじめて目覚めて、鉄のように堅く冷たい重い壁を繊手《せんしゅ》をのべて打叩《うちたた》いて見た。そしてその反響は冷然と響きわたり、勝手にしろと吼《ほ》えた。そのおりには、もう彼女の住む広い胸はなかった。底知れなかった愛人の情をしみじみとさとり知ったおり、そこに偉大な人格を偲《しの》ばなければならなかった。
 傲慢な舞台、中ごろが一番激しかった。ことに幕切れなどは、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》という難をまぬがれないおりもあって、見ていてさえハラハラしたものである。女王に隷属するのは当り前ではないかといった態度が歴然としていた。最後までそれで通して行こうとしたのが、何か気が阻《はば》んだのだ。一本気だけに絶望の底は深かった。
 彼女が大層|他人《ひと》当りがよくなったという事を聴いたのもかなり前のことで、抱月氏のお通夜《つや》の晩に、坂本|紅蓮洞《ぐれんどう》の背中を、立ったまま膝《ひざ》で突つくものがある。冬のはじめの、夜中のこととて、紅蓮さんは暖まるものを飲んでいた一杯気嫌で、
「誰だ」
と強くいって振りむいて見ると、須磨子がうつむき加減に見おろしていて、
「どいてくれない?」
 その座にかわっていたいのだという。末席の後の方だったので、やっぱり棺の側にいた方がよかろうというと、
「でも、あの女が私の方ばかりじろじろ見ているのだもの」
と島村未亡人の方を指差したということである。我儘ものだが、どこかにしおらしい、自分から避ける心持ちも持っていたのである。
 でも彼女は、島村氏の令嬢たちが芸術座へ生計費《せいかつひ》を受取りに来たとき優しくは扱わなかった。門前払い同様にしたといわれ、ずっと前の家では格子戸《こうしど》を閉《た》てきり、水をぶっかけようとしたこともあるという。それは
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